哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

不公平な人生

 
他人の方が、
自分よりも幸せに生きているように、
と思えることは、多々あります。
 
 
 
そして、
それがとても不公平なことであるとも、
思えてしまうものです。
 
 
 
 
しかしながら、
 
幸せであるためには、
その対極にある苦労を知らなければ、
幸せと思うことは出来ません。
 
 
 
 
ですから、
 
幸せしか知らない人というのは存在しないですし、
 
 
幸せそうにしている人も、
周囲からそのように見えているだけであって、
 
その背後には、
計り知れない苦労が隠されているのです。
 
 
 
 
この世界に生きている誰もが、
幸せと苦労の両方を繰り返しているのです。
 
 
 
 
勿論、生まれ育った環境は違いますし、
 
 
一見しただけでは、
やはり人生とは不公平なようにも見えますが、
 
 
幸せと不幸の中にいる、という点においては、
誰もが皆、同じ状態にいるのです。
 
 
 
そういった意味で言うと、
公平だとも言えるのかもしれません。
 
 
 
 
 
そして、
 
自分が、他の誰かになることは出来ませんし、
他の誰かが、自分になり代わることもありません。
 
 
 
どこまでいっても、
自分のことは、自分しか分かりませんし、
他人については、憶測の域を越えることはないのです。
 
 
 
だからもっと、
自分の人生に集中するのです。
 
 
幸せなことも不幸なこともある自分の全ての人生を。
 
 

行動出来ない問題

 
行動するためには、
そのための何かしらの思考があって、
 
 
その思考を行動に移すために、
決断というプロセスを、私達は無意識の内に行っています。
 
 
 
決断したのだから、
そこで間髪入れずに行動に移せば、
当然ながら、何も問題はないのですが、
 
 
決断してからも、さらに、
行動するまでに時間が経ってしまうことで、
また元の状態に戻ってしまうということが、
 
 
誰しも経験のあることではないでしょうか。
 
 
 
 
結局のところ、
決断が決断になっていなかった、
というわけなのですが、
 
 
大事なのは、
決断することと同時に、
 
 
その決断した後に、
いかに時間を置くことなく、行動に移せるかどうか、
ということにあるのです。
 
 
 
 
 
そもそも、物事とは、
何事も行動してみなければ分からないもので、
 
 
思考の中で、
あらゆることをシミュレーションしたところで、
何一つはっきりさせることは出来ません。
 
 
 
思考することによって、
様々な可能性を拡げることは出来ますが、
 
 
可能性を拡げる、ということは則ち、
選択肢を増やす、ということでもあり、
 
 
この選択肢が多ければ多いほどいいか、というと、
決してそういうわけでもないのです。
 
 
 
逆に、迷いや恐れの原因となるだけで、
行動に移す時の障害となってしまうのです。
 
 
 
思考することが足かせとなって、
行動に移せなくなる理由の一つでもあるのです。
 
 
 
 
 
そして、
行動出来ないもう一つの理由としては、
 
 
そもそも、
行動することは恐い、ということなのです
 
 
 
何しろ、
行動することこそが自分を変える、のですから、
 
 
自分が自分で居続けようとするために
必要な心の働きなのであって、
 
 
行動することが難しく感じるのは、ある意味、
当然のことなのです。
 
 
 
 
 
行動に移せないでいるのは、
決して、
 
 
精神力が弱いからでもなく、
実行に移す勇気がないからでもなく、
性格の問題でもありません。
 
 
 
個人の資質、特徴という点から、
行動力の有り無し、を問われることもありますが、
 
 
誰もが今も、何かしらの行動をしており、
 
 
基本的に、
私達の誰もが、行動力はあるはずなのです。
 
 
 
たまたま、
行動出来なかった時のパターンを
それこそが自分自身だと認識してしまうかもしれませんが、
 
 
誰も行動出来ない人はいないのです。
 
 
 
 
思考したことを形にするために、
行動することは、確かに難しいことです。
 
 
 
ですが、私達はいつも行動しているのです。
 
 
 
行動することが難しいからといって、
何もしないのではなく、
 
 
それを知った上で行動することが、全てを変えるのです。
 
 

心配の実現可能性

 
私達は、普段、
どのようなことを考えているでしょうか。
 
 
 
当然ながら、
眼前にある問題、仕事や家族のことなのでしょうが、
 
 
その中身をよく観てみると、
 
それについての
心配だったり、批判だったりしていることが、
ほとんどなのではないでしょうか。
 
 
 
勿論、
 
より良く生きたいから、
というのが根底にはあるのですが。
 
 
 
 
 
しかしながら、
 
そうやって考えていること自体が、
人生そのもの、でもあるのです。
 
 
 
より良く生きようと、
 
あらゆることに思いを廻らしたり、
もしくは心配していることが、いまの人生なのであって、
 
 
 
これまでも、
さんざん思案したり、心配してきたのに、
 
その、より良い人生というのは、
未だ将来にあって、いまにはないのです。
 
 
 
 
 
心配とは、
 
その思った通りのことが、将来、
本当に実現してしまっては困るから、心配するのであって、
 
 
その心配事が実現しないと分かれば、
そもそも、心配する必要はないのです。
 
 
 
 
私達は、普段、
頭の中で心配事ばかりを考えてはいますが、
 
 
実際に、どれだけのことが、
その通りに実現したことでしょうか。
 
 
 
おそらく、
実際にその通りになってしまったことの方が、
極端に少ないはずなのです。
 
 
 
つまり、
 
心配した事は、
思った通りに実現する可能性は、極端に低いのです。
 
 
 
 
だから、
心配する必要はない、と思いたいところですが、
 
 
人間である以上、それでも、
心配を繰り返してしまうでしょう。
 
 
 
ですが、
 
心配したことが実現する可能性が低い、
ということを信じることが出来れば、
 
 
もっと楽に生きることも出来るのではないかと思うのです。
 
 

依存と自立

 
誰にとっても、リスクは怖いものです。
 
 
 
そして、
そのリスクを恐れるからこそ、
 
強い人に守ってもらいたい、
誰かの保護下にいたい、
 
と思ってしまうこともあると思います。
 
 
 
それは、結局、
 
自らの力で何かをする、
 
ということをリスクとして捉えるからであって、
 
 
そこには、
 
自分には何も出来ない、
 
という思い込みが根底にあるからなのです。
 
 
 
 
 
しかしながら、
 
誰かの保護下に身を置く、ということは、
 
 
則ち、
誰かの言いなりになる、手足になる、ということも同じで、
都合の良い道具になる、とも言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 
政治や経済といった、
世の中の全ての仕組みというのは、
 
 
多かれ少なかれ、
様々なシステムに基づいて動いています。
 
 
 
システムは、
人類が誕生した時からあるものではなく、
 
 
誰かが、
何かしらの意図を持って作り出したものであり、
 
その中身が公正で、平等である、ということはあり得ません。
 
 
 
必ず、
その作った当事者にとって都合のよいルールがあって、
 
 
そのシステムを利用するならば、必ず、
そのルールに従わざるを得ないのです。
 
 
 
 
つまり、
 
リスクを避けるために、
誰かに頼る、もしくは依存する、
 
 
ということが、逆に、
 
とてもリスクのあるもの、
 
であるということを、
私達は気が付かなければなりません。
 
 
 
 
 
そして、
 
自分には何も出来ないから、頼るしかない、
 
というのもただの思い込みに過ぎないのです。
 
 
 
自分には、
まだ何も実績はない、というのも関係ないのです。
 
 
 
他の成功者を見ても、
誰もがはじめから何かがあったわけではなく、
 
 
ただそれでも、
自分が出来る、という根拠のない自信があったからこそ、
事を為したのであって、
 
 
出来ない人、
というのは誰一人存在しないのです。
 
 
 
 
頼るべきものは、自分しかいないのです。
 
 
自分がやるのか、どうか、
 
それが全てなのです。
 
 

答えの在り処

 

私達は、どうしても、
答えは一つである、ということに拘りがちです。
 
 
 
答えが一つしかなければ、
 
他の答えがなんであろうと、
疑うことなく、それを信じていればいいのですから、
 
 
自分で、
そのことについて考える必要もないですし、
 
何しろ、
安心感を得ることが出来るのです。
 
 
 
 
そして、
ひとたび、これが答えである、と、
 
自分の中で確信を持つと、
その答えを後生大事にしようとするのです。
 
 
 
それどころか、
それに相反する生き方や答えを持つことを、
 
心のどこかで、
非難したり、見下したりしてしまうのです。
 
 
 
自分にとって、
その答えは、絶対に正しいものでないといけないからです。
 
 
 
 
 
 
しかしながら、
 
答えが一つではない、ということも、
誰もが知っているはずです。
 
 
 
 
常に、答えはいくつもあり、
 
そのどれが正しくて、どれが誤っている、
というものはないのです。
 
 
 
何を選択してもいいですし、
いつでも、選択したものを変えてもいいのです。
 
 
 
 
物事に、
不変なものはないのですから、
 
 
いつでも柔軟に、
その時に自分が最善だと思うことをやるだけなのです。
 
 

何も持たない生き方

 
『人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死ぬ』
 
 
 
私達は、これまでに、
 
数多くの知識や技術を身に付け、
人間関係を構築してきました。
 
 
 
これらの目的を一言で言うと、
 
 
生きるため、
ということに集約されてしまうのですが、
 
 
 
冒頭にもある通り、
 
 
私達は、誰もが、
何も持たない状態で生まれてきて、
 
 
いずれ、この世を去る時も同じように、
何も持つことはありません。
 
 
 
つまり、はじめから、
何も持っていない、ということなのです。
 
 
 
 
 
 
ところで、私達は、
何かことに当たる時には、常に、
 
何かの準備や前知識、先入観を持っていくことが、
いわば当然のこととなっています。
 
 
 
しかしながら、
それらを持ってしまったことによって、逆に、
 
 
正しい判断を見誤ってしまった、
というのは、よくある話だと思いますが、
 
 
 

本当に重要で、大切なことを見ようとしたら、
前例や先入観ほど不要なものはなく、
 
 
結果的に、
判断を見誤る、ということになるのです。
 
 
 
 
 
 
何かを持つということは、ある意味、
 
 
それにすがったり、依存してしまう、
ということなのです。
 
 
 
本当に頼るべきは、
自分自身であり、自分の感覚そのものなのですが、
 
 
私達の周りには、
余りにも余計なものばかりに囲まれてしまっていて、
 
 
これに頼ろうとすることで、
判断に迷い、よく分からなくなってしまうのです。
 
 
 
 
 
私達には、
自分の身以外に必要なものは何もなく、
 
 
あえて、何も知らずに、
あえて、何も見ないで、
 
ことに挑む、ということも必要なのです。
 
 
 
無駄な部分を全て削ぎ落とさなければ、
大事なことはよく見ることが出来ないのです。
 
 
 
何も持たないことの必要性を、
私達はもっと知る必要があるのです。
 
 

怒りの原因

 
人間関係において、
 
 
自分が善意でやった行為なのに、
逆に、相手を怒らせてしまったり、
 
 
同じように、
 
自分が、
相手の善意を受けながらも、それに反して
怒ってしまうことがあると思います。
 
 
 
 
 
善意でやったことを、
真逆の状態で返されてしまうのですから、
 
 
返された側の怒りや苦しみは、
本人以外には計り知ることは出来ないでしょう。
 
 
 
 
 
受けた苦しみに対しては、
相応の苦しみでもって返したい、と思うところですが、
 
 
それが、
賢明な判断ではない、ということも、
誰もが認識しているものだと思います。
 
 
 
 
 
そもそも、
怒りというのは、一過性のもので、
 
そのことに関する様々な思考も、
その瞬間に沸いたものに過ぎません。
 
 
 
また、
自分と相手の人とは、
異なる人間なのであり、
 
その思考も感情も、違っていて当然なのです。
 
 
 
 
たまたま、今回、
相手の意に沿わないことが起きてしまっただけであって、
 
 
時と場所が変われば、
 
全く逆のことを、
自分が相手に対して行う可能性もあるのです。
 
 
 
 
決して、
自分のことを否定されたのではなく、
自分の行為が、相手の意に沿わなかっただけのこと、
 
 
相手の解釈が、
自分と異なるだけのことに過ぎないのです。
 
 
 
 
自分に向けられた思考や感情が、
 
それが、
そのまま自分の人間性を表現しているのではない、
ということを理解していなければなりません。
 
 
 
相手の不興を買ってしまったからといって、
 
その通りに、自分を評価したり、
自分のことを自分で否定したりしてはいけないのです。
 
 
 
 
 
他人のことを、
 
自分と同じ目線で見ようとするから、
怒りを覚えるし、苦しくなるのであって、
 
 
自分と他人は、
そもそも何から何まで違うのです。
 
 
自分と同じ目線で見ようとしてはいけないのです。