哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

自分にこだわる

 
自分に起きていること、
則ち、
 
自分の人生とは、
自分だけしか経験することのない唯一のものです。
 
 
 
 
そんな自分の人生を振り返って、
 
 
自分の生き方は失敗だった、とか、
今の自分は本来あるべき姿ではない、等といった、
 
 
思いに駆られてしまうこともあるかと思います。
 
 
 
 
しかしながら、
自分の人生は、自分だけのものであって、
 
 
いつでも本番で、
やり直すことも、代替のきくものでもありません。
 
 
 
今の自分の生き様が、
まさに本来の姿であり、失敗でも成功でもないのです。
 
 
 
 
 
だからこそ、
 
今も、これからも、
 
どのような自分でいたいのか、ということに、
徹底的に拘るのです。
 
 
 
今までの自分がどうだったか、ということは、
全く関係ありません。
 
 
 
今の自分というのは、
過去の自分からの延長ではないのです。
 
 
 
在りたい自分のために、
今やれることに集中するのです。
 
 
 
 
大事なのは、
 
いつでも、
自分はどう在りたいのか、ということ、
 
 
ただそれだけなのです。
 
 

感情のコントロール

 
私達は、
感情に左右される生きもので、
 
 
その感情は、
事あるごとに、浮き沈みを繰り返し、
 
 
どのような人であっても、
その浮き沈みから逃れることは出来ません。
 
 
 
ポジティブとネガティブの感情を、
交互に繰り返しているのです。
 
 
 
 
とりわけ、
 
怒りの感情というのは、
 
誰もが避けたいと思いながら、
なかなかコントロール出来ずに苦労していることだと思います。
 
 
 
 
怒りを覚えた時、私達は、
瞬間的にこれをどうするかを考えます。
 
もしくは、
考える間もなく、反射的に反応しているかもしれません。
 
 
 
 
感情を表に出せば、
 
自分はそこで発散されるかもしれませんが、
周囲や人間関係に悪影響を与えてしまうのは、
目に見えています。
 
 
 
一方で、
 
我慢すれば、
その場は何事も起きることはありませんが、
 
抑え込んだ怒りは、
心の奥に溜まったまま、
いつかのタイミングで暴発するだけなのです。
 
 
 
 
怒りを感じ、
 
自分で、怒ってはいけない、
 
と言い聞かせても、
抑え込むことが難しいこともあります。
 
 
 
相手の人を赦そうと思いたくても、
怒りの感情が勝ってしまうこともあるのです。
 
 
 
 
 
 
感情とは、
 
瞬間的に湧き上がった後、
一定の間(90秒間)、自分の体に留まり、
 
次の瞬間には、消えていくものと言われています。
 
 
 
しかしながら、
その感情を、
引き続き自分の中に留めてしまうことも出来るわけで、
 
 
それは、
その感情を、自らが長引かせるように選んだから、
とも言えるのでしょう。
 
 
 
 
つまり、
 
自分で、怒りを選択している、
と言えるのですが、
 
 
 
実質的には、
 
選択せざるを得ない状態に陥っているだけで、
 
 
それは、
 
感情に乗っ取られてしまっている、
ということでもあるのです。
 
 
 
 
感情は、
 
元々、一定の間を過ぎれば、
跡形もなく過ぎ去っていくのですから、
 
 
あえて、
自分の中に留める必要はないのです。
 
 
 
何が湧いてきても、ただ静観する、
 
それが、
感情をコントロールする、ということなのです。
 
 
 
 
感情の赴くままでいることは、
 
もはや、
感情の奴隷、でしかありません。
 
 
 
 
私達は、
 
常に、感情を自分でコントロールすることが出来るのですから、
感情に振り回されてはいけないのです。
 
 
怒るかどうかも、
自分が決めてコントロールするのです。
 
 

自分のイメージからの脱却

 
私達は、
周囲の誰かに対して、それぞれについて、
何かしらのイメージを持っていると思います。
 
 
 
その人は、確かに、
そのイメージ通りの一面もあるかもしれないけど、
 
 
必ずしも、
そのような人だとも言い切れるものでもありません。
 
 
 
あくまで、
自分の思い込みによって、
作り出された一つのイメージでしかないのです。
 
 
 
 
 
逆に、
 
その人は自分のことを、
どのように見ているのでしょうか。
 
 
 
自分が自分に対して持っているイメージとは、
また異なるイメージを持っているものと思われます。
 
 
 
 
自分が知っている誰か、というのは、
 
誰一人として、
自分が思っているような人ではないのです。
 
 
 
同じように、
 
その誰かが自分を見る時も、
 
自分がイメージしているようには、
自分のことを見ていない、
 
 
ということを理解しなくてはなりません。
 
 
 
 
 
私達は、一人の人間として、
今ここに存在していますが、
 
 
それとは別に、
 
自分のイメージの中で存在し、
他人のイメージの中でも存在しているのです。
 
 
 
そして、
 
そのどちらかが正しくて、
どちらかが間違っている、
 
 
ということでもなく、
そのどれもが、自分の中の一部であって、
 
 
全てが、自分の中の一つの要素として、
存在しているのです。
 
 
 
 
 
誰もが、
 
「自分らしさ」
 
というものを意識し、
そこに拘りを持ってしまいますが、
 
 
 
それも、
自分の中のイメージの世界であり、
自分の思い込み以上の何ものでもないのです。
 
 
 
 
「自分らしさ」に拘ってしまうから、
 
自らの生き方の選択肢を狭め、
生き辛くなってしまうのです。
 
 
 
 
私達は、
あらゆるものから自由なのですが、
 
 
自分自身のイメージからも、
自由でいるべきなのです。
 
 

他人から見た自分

 
他人から見た自分、というのは、
どのような存在なのでしょうか。
 
 
 
誰にとっても、
 
自分は、
誰かにとっての大事な存在でいたい、
という思いは、
 
あるかと思いますが、
 
 
 
実のところ、
自分達が思っているほど、
 
他人にとっての自分、というのは、
大きな存在ではありません。
 
 
 
 
誰にとっても、いつでも、
一番中心となるのは、自分自身であって、
 
 
どんなに大事な人でも、特別な人であっても、
自分以上に大切な存在には成りえないのです。
 
 
 
自分という存在なくして、
他人との関係性は成立しないのですから、
 
 
まずは、自分なのです。
 
 
 
 
 
基本的に、
 
 
誰もが、
自分を中心に物事を考えていて、
 
自分が思っているほど、
他人は、自分のことを気にしていないのです。
 
 
 
他人は、
自分から見れば、脇役で、
他人からみた自分も、同じく脇役なのです。
 
 
 
ですから、
自分がどうであっても、大したことではないのです。
 
 
 
 
しかし、だからといって、
 
自分を軽視してもいい、ということではありません。
 
 
 
自分は、
誰よりも自分にとって、
一番大事な存在であることに変わりはないのです。
 
 
 
 
自分という存在は、
 
他人から見て、
大事な存在になる必要は決してないのですが、
 
 
自分にとっては、
どこまでいっても、最も大切にしなければならない存在なのです。
 
 

自分に没頭する

 
誰にとっても覚えのあることですが、
 
 
好きなことをしていれば、
時間を忘れて集中しているので、
 
他人の目は全く気にならない、
 
 
ということは、
よくあることだと思います。
 
 
 
 
 
基本的に、
動物はやりたいことや好きなことしか、
やりません。
 
 
 
やりたくないことはやらないし、
好きでもないことをやろうとはしません。
 
 
 
それは、人間も例外ではなく、
 
 
誰もが、好き好んで、
やりたくないことをやっている人はいないのです。
 
 
 
勿論、生きる上においては、
やりたくないことでもやらざるを得ない場面もあるでしょう。
 
 
 
 
ですが、
 
いつからか、
やりたくないことばかりをやって、
やりたいことをやろうとしなくなってはいないでしょうか。
 
 
 
そして、
 
やりたいことをやらない自分に対して、
 
言い訳をしたり、誤魔化したり、
やらないことの理由ばかり考えてはいないでしょうか。
 
 
 
 
 
自分のやりたいことというのは、
 
周囲から評価を得られないものであったり、
公言できるようなものではないからであって、
 
 
それが、
やらない理由の一つになってしまっているのです。
 
 
 
つまるところ、
 
他人の意見や評価なくして、
何もすることが出来なくなってしまっているのです。
 
 
 
 
自分よりも、
他人に従うことが正しいことである、と信じ、
 
それを頑なに守ろうとするのです。
 
 
 
 
勿論、
 
他人に従うことは、
生きるために必要なことでもあるのですが、
 
 
無理に自分を押し込めてしまうことで、
それが自分を苦しめてしまうことにならないでしょうか。
 
 
 
 
 
私達は、
他人を気にするあまり、
自分を見失ってしまっているのです。
 
 
 
 
そして、私達には、
自分のやりたいことをやる時間しかないのです。
 
 
 
だからこそ、
 
もっと自分に集中し、
我を忘れて没頭することが必要なのです。
 
 
 
改めて大事なのは、
 
他人の意志ではなく、
自分の感性で生きることなのです。
 
 

周囲からの目

 
誰にとっても、
 
多くの人に注目されるということは、
悪い気はしないと思います。
 
(勿論、良い意味で、
注目されるということですが)
 
 
 
 
それは、
 
自分には、
他の人にはない存在価値があり、
 
 
自分がそれなりの人物である、
と思わせてくれるからです。
 
 
 
 
しかしながら、
 
そのような生き方にも、代償があり、
 
 
それは、いつでも、
周囲に評価されるような自分でいなければならない、
 
ということにあり、
 
 
 
この場合、
 
自分が誰であるかを、決めるのは、
 
自分自身ではなく、
周囲の人にあるということなのです。
 
 
 
 
無意識の内に、
 
周囲の人に承認を求め、
 
その承認を受けることによって、
自分自身というものを確立してきたのです。
 
 
 
 
今の自分とは、
 
周囲の目によって、
たまたま作り上げてしまった、一つの姿でしかないのです。
 
 
 
 
そして、
 
周囲の評価から自分を解放しない限り、
どこまでいっても、
 
自分の判断基準は、他人にあり、
周囲の承認がないと、行動出来ないのです。
 
 
 
 
ですが、
 
それが、本当の自分の姿だとは、
誰もが思っているはずはありません。
 
 
 
本当の自分とは、
 
今の自分とは異なる、
全く別の顔を持った存在なのです。
 
 
 
 
自分の行動を決めるのは、
周囲の評価ではなく、自分の感性なのです。
 
 
 
周囲の目から自由になること、
 
 
私達には、はじめから、
その自由があることを忘れてはいけないのです。
 
 

変われない自分

 
自分の人生において、
 
自分に起きる様々なことは全て、
自分が選択した結果であり、
 
 
どのようなことも、
自分の発意、自分の意志によるもの、
 
という見方をした場合、
 
 
 
自分の意志によって、
自分の生き方を変えていくことが出来るのならば、
 
 
もっと多くの人が、
それを実現しているはずなのですが、
 
 
実際には、
なかなかその通りにはいかないことの方が多いものです。
 
 
 
 
 
 
私達には、
 
生まれてから、
どうしても変えられない部分も存在し、
 
 
それにも拘わらず、
そこにフォーカスしてしまうから、
 
 
「自分のことを変えられない」、
と思ってしまうのではないでしょうか。
 
 
 
つまり、
 
そもそも、
自分のことをよく分かっていなかったり、
 
「本当の自分の姿を認めたくない」
という思いが、
 
 
自分の中の、
 
変えられないところや、
変えるべきではないところ、
 
もしくは、
変える必要のないところを
 
 
見誤ってしまっているのかもしれません。
 
 
 
 
 
自分のことは、
 
自分自身が一番よく分かっている、というのは、
実は、大きな誤りで、
 
 
自分自身だからこそ、
 
自分のことがよく分からなかったり、
偏った見方をしてしまっている、というのが、
 
 
真実なのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
変わりたい、
という思いがあるのに、
 
変われないのは、とても苦しいことです。
 
 
 
 
ですが、
 
変われない、ということも、
少し見方を変えれば、
 
 
「自分に対する認識を変える」、
 
という、
絶好の機会であるとも言えませんでしょうか。
 
 
 
 
変われない、のではなく、
 
 
変わる必要がない、のかもしれませんし、
変えるべきではない、のかもしれません。
 
 
 
 
いずれにせよ、
 
私達は、自分自身のことを、
まだまだ誤解している可能性があります。
 
 
 
 
必要なのは、
 
自分が変わることではなく、
自分に対する認識を変える、
 
ことなのかもしれません。