Philosophical Thinking

~~全ては「自分を知る」ことから~~【21日間で成功習慣を身に付ける】

「自分」から逃げてはいけない

誰もが、
「今の自分よりも良くなりたい」、
「理想の自分になりたい」、
 
という「思い」を持っています。
 
 
 
その「思い」というのは、
 
子供の頃から抱えている
「コンプレックス」だったり、
過去の「嫌な出来事」
によるものかもしれない。
 
 
いずれにしても、
そのほとんどが、
「過去の自分」を起因とする
ものなのです。
 
 
 
そして、
この起因となる
「過去の自分」を克服しない限り、
「理想の自分」に近づくことは出来ないのです。
 
 
 
 
「過去の自分」を克服するのは、
困難を伴い、
嫌なことでもあるのでしょう。
 
 
ですが、
その「過去の自分」を忘れようとしたり、
そこから逃げようとしたところで、
 
 
「過去の自分」は、
いつまでも追いかけてくるのです。
いつも目の前に立ち塞がるのです。
 
 
 
 
そもそも、
「過去の自分」は、
 
「自分」なのですから、
「自分が解決」するしかなく、
 
他の誰かが、
助けに入ることは、不可能なのです。
 
 
 
 
「自分」からは、
絶対に逃げてはいけない。
 
「自分」と向き合う
「勇氣」を持つのです。
 
 
解決出来ない困難はないのですから。
 
 

知らないことの「恐怖」

人というのは、
「知らない」、「理解できない」
ことに対して、
「恐怖感」を持ちます。
 
 
「知らない」、「分からない」から、
「怖い」と感じるのであって、
 
 
「知って」しまえば、
「なんということもない」、というのは、
 
多くの方が体験していることではないでしょうか。
 
 
 
そして、
この「知る」ということは、
 
単なる「情報」としての「知識」
ということではなく、
 
「実体験」を伴った「経験」そのもの
を意味しているのです。
 
 
 
 
「情報」としての「知識」だけでは、
それをどんなに蓄えようとも、
 
 
「行動」を伴わなければ、
「知らない」ことと同じなのです。
 
 
 
則ち、
「恐怖」を乗り越えるためには、
「知る」ことが必要で、
 
「知る」ためには、
「行動」するしかないのです。
 
 
 
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知行合一】(陽明学):
行動を伴わない知識は未完成である
 
『知って行わないのは、
未だ知らないことと同じであり、
知っている以上は、
必ず行いにあらわれる』
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自分の「評価」

誰もが、
他人から「どう思われているか」
と気になることはあります。
 
 
 
そして、
その「思われたい」ことというのは、
 
「良い人」だと思われたい、
「優秀な人」だと認められたい、
「大切な人」だと思ってもらいたい、
 
 
といった、
自分にとって「ポジティブ」なこと、
もしくは、
 
 
自分にとっての
「理想の自分」の姿、
なのです。
 
 
 
「理想の自分」というのは、
「自分が思い描く」自分、ということなので、
 

  
本来なら、
「自分」が、
「自分をどのように観ているのか」
が一番重要なのであって、
 
 
「他人」が、
「自分をどのように観ているのか」
というのは、二の次なのです。
 
 
 
それにも拘わらず、
「自分の評価」ではなく、
「他人からの評価」を意識してしまうのは、
 
 
「自分の評価」が、
「誤解」、「勘違い」、「偏見」
 
ではないかと、
「自認」しているから。
 
 
つまり、
「自分を信用していない」
ということに、
他ならならないからなのです。
 
 
 
ですが、
だからといって、
「他人の評価」の方が「正しい」か、
 
というと、
決してそういうわけでもなく、
 
 
そこは、
「自分」と同じように、
「誤解」、「勘違い」、「偏見」
の固まりなのです。
 
 
 
 
「人の視点」というのは、
「価値観、性格、環境、立場」
といった様々な要因によるもの、
 
いわば、
「個性」そのものなのです。
 
 
 
「個性」である以上、
そこに「正しい、正しくない」
 
という「判断基準」は存在せず、
 
 
自分の「評価」は、
自分が決めればいいだけの問題なのです。
 
 
 
 
その「評価」を、自ら放棄して、
他人に委ねる必要はないのです。
 
 

全ては「タイミング」

物事は全てが「タイミング」
によって成立します。
 
 
たとえ「同じ」ことをやったとしても、
ほんの少しの「タイミング」が違うだけで、
結果は大きく変わってくるものであり、
 
 
人生という長いスパンで見た場合でも、
 
その中にあるほんの少しの「タイミング」が
違っただけで、
人生そのものが大きく変わるのです。
 
 
 
ほんの少しの「タイミング」というものが、
いかに重大で重要なものであるか、
いうまでもありません。
 
 
 
「今日」やってみて
「うまくいく」ことも、
 
「明日」やってみれば
「ダメ」だということは、
 
よくある話です。
 
勿論、
その逆のパターンもあるわけですが、
 
 
 
「タイミング」の良し悪しというのは、
 
本当に、
「やってみなければ分からない」
というのが現実で、
 
「予見できるものなど何もない」、
というのが、
この世の真理であるのかもしれません。
 
  
 
それでも、
何かを「思いついた」
その「瞬間」こそが、
 
 
物事を行う
「ベストなタイミング」
であるともいえるのです。
 
 
 
それは、
時間をかければかけるほど、
刻々と「状況は変化」し
その「タイミング」には、ズレが生じ、
 
「うまくいくこと」も
「うまくいかなくなる」からなのです。
 
 
 
「思考」することは、
大事なことですが、勿論、
 
その「思考」をしている間にも、
「状況は変化」していくのです。
 
 
 
何かを「思いついたら」、
そこで留まることなく、
 
とりあえず「実践」してみる。
 
 
単純ですが、
これが「タイミング」を捉えることなのです。
 
 
 
全ての鍵は、
「タイミング」にあるのです。
 
 

「エゴ」を手放す

誰もが、
「エゴ」というものを持っています。
 
 
それは、
「より良く生きたい」、
「もっと繁栄したい」、
 
という、
「種」の「生存」に関わる、
人としての「生存本能」なのです。
 
 
 
とはいっても、
それが死ぬまで、
「エゴ」を持ち続けるか、
というとそうでもなく、
 
 
ある条件になると、
「エゴ」は必要なくなるのです。
 
 
 
その条件とは、主に以下の通りで、
 
 
①:「年齢」を十分に重ねる
②:「経験」を十分に重ねる
③:「欲」を十分に満たす
 
 
①というのは、
加齢によるもので、
 
「もう十分に生きた」
という思いからくるもの
 
 
②というのは、
自分の可能性を散々に試してみて、結果、

「自分の可能性に見切りをつける、
ことが出来た」
という思いからくるもの
 
 
③というのは、
 
「自分の欲しいものを十分に得られた」
という思いからくるもの
 
 
 
 
上記3点に共通して言えるのは、
 
実際に「経験」を踏まえた上で、
 
「十分に知り尽くした」
というところにあるのです。
 
 
 
つまり、
まだまだ人生に見切りをつけるだけの
「年齢」でもなく、
 
これ以上やることがないくらいの
「経験」もしておらず、
 
物質的、精神的にも「満たされる」
こともないのに、
 
 
 
それでも尚、
自分の「エゴ」を手放そう、
というのは、
 
自分の人生を「放棄」したい、
という「諦め」でしかないのです。
 
 
 
「エゴ」は、
何かをするために必要な
「原動力」であって、
 
その「力」を、
誤った方向にさえ向けなければ、
持つことに何の問題もないことなのです。
 
 
 
今はとにかく、自分の思ったことを
「納得」のいくところまでやってみれば
いいのです。
 
 
その中で、
もし、自分の「思い」が満たされたのならば、
「エゴ」というものは、
自然に無くなっていくものなのですから。
 
 

「エゴ」の境界線

「エゴ」という言葉は、いわゆる
「エゴイズム」のニュアンスとして、
私達が普段使っているものです。
 
 
その言葉の定義としては、
 
「利己主義」で「自分中心的」
な考え方を指し、
他人の気持ちや幸福を考えない、
思考や行動様式のこと
 
 
という意味で、
あまりよいイメージのものではない、
 
ものだと思います。
 
 
 
ところが、
この「エゴ」における、
 
「自分と他人との境界線」というのは、
どこにあるのでしょうか。
 
 
 
何かの願望実現を望んだ時に、
 
 
それが、
「自分自身」だけのものなのか、
それとも、
「他人」や「社会」のためなのか、
 
という視点で、
これが「エゴ」なのか、そうでないのか、
と「線引き」されるかもしれないのですが、
 
 
「自分自身」のため、といいながらも、
いざ蓋をあけてみると、
それが「他人」のため、
でもあったりすることもあって、
 
単純に「切り離す」
ことの出来るものでもないのです。
 
 
 
「他人」や「社会」のためといった
社会貢献を果たすためには、
 
その前提として、
まずは、「自分自身」が強く、
影響力を持たなければならないわけでして、
 
 
そのためには、
誰よりも「自分自身」
を優先させなければならないのです。
 
 
 
他方で、
「自分自身」の願望ばかりに、
最初はフォーカスしていていたとしても、
 
「自分自身」だけというのは、
気宇の小さいもので、いずれ限界があるもので、
 
見るべき視点は、
「自分」のことよりも
「他人」、「社会」へと自ずと変わるものなのです。
 
 
 
 
「志、目標、目的、向上心、探求心」
これら全ては「エゴ」から派生したものです。
 
 
「エゴ」は、「意志」であり、
「行動」を起こさせるために、
必要不可欠なものであって、
 
 
逆に、
強く「エゴ」を持たなければ、
何事も果たすことは出来ないのです。
 
 
 
つまり、
「エゴ」なくして、
今の社会そのものも存在しないし、
「エゴ」があるからこそ、
「希望」や「期待」を持って生きることが出来る、
 
そのための「原動力」なのです。
 
 

私達は、人である以上、
「エゴ」を無くすことは出来ません。
 
 
「エゴ」を無くすということは、
言い換えれば、
「どうでもよい」と同じことで、
いわば、
「世捨て人」とも言えるのです。
 
 
 
ですので、
「エゴ」は持つべきものなのです。
 
問題なのは、
その「エゴ」をどのような方向に活かしていくのか、
そこが大事なことのです。
 
 

「感情」を動かす

「子供」の頃は、誰もが、
どんな些細なことであっても、
 
興味を持ったり、感動したり、
期待したり、妄想したり、
喜んだり、悲しんだりと、
 
 
何かの出来事に対して、
素直に、純粋に、
「感情を表現」していたと思います。
 
 
 
ですが、
やがて「大人」になるにつれ、
 
「感動を覚える」ことも、
「感情を動かされる」ことも、
少なくなった、のではないでしょうか。
 
ある意味、それが、
「大人」になる、
ということでもあるのですが。
 
 
 
このようになることは、
実は、この社会を生きるために、
必要なことでもあって、
 
 
「感情を動かす」
ということは則ち、
「感情」が「思考」を上回ってしまうため、
 
 
「物事を客観的に見れない」
「論理的に考えることが出来ない」
「冷静に判断が出来ない」
 
という状態を引き起こすため、
 
 
「大人」として生きるためには、
 
「感情を動かさない」
ようにならざるを得ない、
とも言えるのです。
 
 
 
そして、残念なことに、
「感情を動かさない」ことに慣れ過ぎてしまって、
 
 
自分の「感情」がどこにあるのかすら、
「見失ってしまう」こともあるのです。
 
 
「自分の本心が分からない」、
「やりたいことが分からない」、
「自分には期待出来ない」
 
これらはその「一例」なのです。
 
 
 
 
私達は、
いきなり「大人」として、
この世に存在しているのではありません。
 
当然のことではありますが、
元は、誰もが「子供」だったのです。
 
 
 
そして、生きていく上においては、
 
「大人」としての自分も必要ですが、
「子供」としての自分でいることも、
時には必要なのです。
 
 
 
「子供」の時には、
自分自身に対して、様々な「期待」をし、
その「可能性」を疑うことはなかったはずです。
 
 
それが、成長して
「大人」になったからといって、急に、
 
そのような「自分」を諦めたり、
卑下したり、貶めたりと、
してしまうのは、どうしてなのでしょうか。
 
 
もう一度、
今の自分の「可能性」に、
「挑戦」してもいいのではないでしょうか。
 
 
 
誰にとっても原点は、
「子供」の時の自分なのです。
 
今の自分を変えるヒントは、
「子供」の時の自分にあるのです。
 
 
今からでも、遅くはないのです。
 
「子供」の時、
どのようなことに、
「心」や「感情」を動かしていたでしょう。
 
それを思い出すのです。
 
 
「大人」の自分のままでいては、
何も出来なくなってしまうのですから。