哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

「何もしない」という選択【再掲】

私達の多くは、
「何もしない」ことを、極端に、
「嫌っている」のではないでしょうか?
 
 
 
「何も行動しない」
「何も考えない」
「何も決めない」
 
 
 
とにかく、
「何もしない」ことが、
 
 
あたかも「悪い」ことであるかのように、
勝手に思い込んでしまい、
 
 
何でもいいから、
「何かをしよう」とするのです。
 
 
 
 
「何もしない」ことが、
ただの時間の「浪費」で、
「無為」なもので、
 
 
そのような状況になること自体、
この社会経済においては、
「悪」なのです。
 
 
 
 
 
「何かをすれ」ば、
それがどのようなことであっても
「結果」が出ます。
 
 
同じように。
「何もしなく」ても、
それに応じた「結果」というものが出てきます。
 
 
どのような選択をしようとも、
必ず「結果」は出るのです。
 
 
 
 
そして、
この「結果」だけにフォーカスすると、
 
おそらくは、
「何かをした」時の方が、
より前向きな「結果」を得られることは多い、
と思いますが、
 
 
勿論、絶対ではなく、
その逆のケースもあり得ます。
 
 
 
 
何でもいいから、
「何かをする」ことばかりが、
 
問題の解決策にはなるとは限らない、
ということなのです。
 
 
 
 
 
いつも、
「何かをしなければならない」
 
と「焦って」ばかりでいませんか?
 
 
「焦る」ことで、
物事が進むのであれば、
それに越したことはないでしょう。
 
 
 
ですが、
「何もしない」ということも、
採るべき「選択肢」の一つなのです。
 
 
 
 
「何もしない」ことは、
必ずしも「悪い」ことではないのです。
 
ただの、一つの
「選択肢」に過ぎないのです。
 
 
 

「自力」と「他力」【再掲】

この世には、
「自力」と「他力」があって、
 
 
それは、
自分の力でどうにかなるもの(自力)と、
そうでないもの(他力)
 
とに分けることが出来ます。
 
 
 
そして、
「他力」とは、言葉を換えると、
「運」とも言えるのですが、
 
 
 
この「他力」、「運」の方が、
「自力」に比べても、
凡そ、比較にならないほどに、
 
 
インパクト」があって、
「影響力」を有しているのです。
 
 
 
 
「自力」では、
どうにもならないことであっても、
 
「運」によって、
どうにかなることがある、
 
 
というのは、
まさにこのことを示しているのです。
 
 
 
 
 
ですが、
だからといって、
「自力」を蔑ろにすることは出来ません。
 
 
 
私達の周りの、所謂、
「成功者」と呼ばれる人達を見ても分かる通り、
 
 
「成功」している人というのは、
自分の望んだ生活を、
「自力」で獲得してきたはずなのです。
 
 
 
人一人が、
「成功」するかしないか、
というのは、
 
「その程度」のレベルの話でしかない、
ということなのであって、
 
 
 
「自分」以外の力を頼りにしなくても、
 
誰もが、
その「意志」さえ持っていれば、
得ることが出来るものなのです。
 
 
 
 
 
自分で「努力」すれば、
何とかなるようなことに対しては、
 
 
本来、
「他力」、「運」というものは、
「不要」なはずなのです。
 
 
なかなか、
思い通りにいかないというのは、
単純に、出来ることをやれていない、
 
ただそれだけなのです。
 
 
 
 
私達には、
自分でやれることが、
まだまだ「沢山」あるのです。
 
 
ですから、
自分の「自力」の可能性というのを、
もっと信じてみるべきなのです。
 
 

「過去」の記憶と「今」の自分【再掲】

人は誰しも、
 
自分が「苦手」とするような人とは、
付き合いたいとは思わないでしょうし、
 
「苦手」な物事に対して、
積極的にやろうとは思わないものです。
 
 
 
 
そのような「苦手」な人や物事から、
逃げ出すことが出来るのならば、
それに越したことはないかもしれませんが、
 
 
都合よく、
なかなかそうもいかないのも現実でして、
 
 
結局のところ、
「苦手」なことであっても、
正面から向き合わざるを得ないものなのです。
 
 
 
 
 
そもそも、
「苦手」というのは、
 
自分の中にある、
過去の「記憶の産物」で、
 
 
それは例えば、
 
誰かに、
「嫌な」思いをさせられたり、
何かを失敗して、
「恥ずかしい」思いをしたり、
 
というものなのですが、
 
 
 
 
その過去の「記憶」を、
今の自分の「現状」とに「紐づけ」てしまうから、
 
自分で自分を苦しめてしまうことになるのです。
 
 
 
 
 
私達は、
過去の「記憶」なしに、
生きていくことは出来ません。
 
 
過去の「記憶」があるからこそ、
今の自分がいるわけなのですから、
 
過去を否定してしまっては、いけないのです。
 
 
 
 
ですが、
私達は、
過去からの延長ではあるものの、
日々、新しく生まれ変わっているのでもあるのです。
 
 
 
ですから、
いつまでも、
過去の自分として生きることはないのです。
 
 
 
そして、
過去の自分ではないのですから、
「苦手」と感じる必要性も、最早ないはずなのです。
 
 

「誤魔化せない」感情【再掲】

自分が何かの「行動」を起こすためには、
その元となる「感情」が、必ず伴うものです。
 
 
 
 
その代表例ともいえるのが、
 
「ワクワク」した気持ち、
であって、
 
 
この「感情」が何をするにも、
とても大事だ、ということは、
 

今も、 
様々なところで、
様々な人によって、
言われ続けています。
 
 
 
 
確かに、
「ワクワク」するような「感情」というのは、
 
 
全ての「行動」や「思考」の「発端」
になるもので、
 
とても大事なことであるというのは、
間違いのないものと思うのですが、
 
 
 
 
一方で、
この「感情」というものほど、
 
外側の様々な状況によって、簡単に、
「揺さぶられる」、
というのも事実なのです。
 
 
 
つまり、
外側からの刺激によって、
 
いかようにも
「コントロール」されてしまう恐れもある、
ということなのです。
 
 
 
「コントロール」されてしまう、
というのは、
 
 
自分の「本心」からの思いではなく、
 
 
どこか、
自分自身の気持ちを「誤魔化し」、
 
 
強引に、
自分自身を「言い聞かせる」
ことによって、
成り立たせているものなのです。
 
 
 
 
自分を「誤魔化し」てしまっていては、
その一時はいいのかもしれませんが、
 
 
自分に「無理」をさせている以上、
必ずどこかで、
その「歪み」が跳ね返ってくるものです。
 
 
 
 
 
貴方の感じている、
その「ワクワク」とは、
 
自身の内側や本心から、
湧き上がってきたものなのでしょうか?
 
 
それとも、
自分を「誤魔化し」、
自分に「無理」をさせているものではないでしょうか?
 
 

受け入れるべき「非常識」【再掲】

全ての物事は、
諸行無常」で、
 
全てが変化していくものです。
 
 
 
今の私達の生活における、
この「社会」や「常識」も、その例外ではなく、
 
常に変化を続けてきたのです。
 
 
 
「常識」は、
社会を動かすための「ルール」ではあるのですが、
 
当然ながら、
完全なものではなく、常に「不完全」であり、
 
 
「不完全」であるがために、
変化していくものでもあるのです。
 
 
 
 
しかしながら、
そのような「不完全」なものであっても、
私達は、それが「常識」だといわれると、
 
 
ただそれだけで、
「絶対的」なものとして、
「当たり前」のものとして、
 
 
何の「疑い」もなく、
放置されることもあるのです。
 
 
 
 
 
全ての「常識」は、元をただせば、
全てが「非常識」なのです。
 
 
 
「常識」を簡単に受け入れることが
出来るのであれば、
 
「非常識」を受け入れることも
簡単に出来るはずなのです。
 
 
 
 
全てのスタートは、
「非常識」を受け入れる、
 
ことからはじまるのです。
 
 

「インプット」と「アウトプット」の間【再掲】

私達は、
生まれた時から、
毎日、意識的無意識的に拘わらず、
様々なことを「インプット」し、
 
そして、必要に応じて、
「アウトプット」してきました。
 
 
 
「インプット」は、
ただそれだけでは、
何の意味も、役割もあるわけではなく、
 
 
「アウトプット」して、
はじめて意味のあるものとなるのです。
 
 
 
 
つまり、
「インプット」は、
全て「アウトプット」のために存在する、
 
といっても、過言ではないのですが、
 
 
 
しかしながら、私達は、
このことを頭では理解しながらも、
どうしても、
 
「インプット」に偏りがちになってしまうのです。
 
 
 
 
それは、
「インプット」と「アウトプット」の間には、
目に見えない様々な「要素」があるからなのです。
 
 
 
 
「インプット」するというのは、
知識や技術を吸収する、という、いわば、
「受け身」の立場のままでもいいのですが、
 
 
 
「アウトプット」というのは、
自らの「言葉」として発信するという、
「責任」が生じるわけでして、
 
 
更に、
自分の「言葉」として変換するためには、
必要な「過程」が存在するのです。
 
 
 
つまり、
「アウトプット」するには、
それだけの「努力」と「責任」、
そして「勇気」が必要だということなのです。
 
 
 
 
「インプット」と「アウトプット」における違い、
というのは、
単なる「入力」と「出力」の違い、
に留まらず、
 
 
「重み」そのものが異なる、
 
ということなのです。
 
 

「プロセス」と「結果」と【再掲】

何かの「結果」を求めるためには、
 
そのための「プロセス(過程)」が、
当然ながら必要になります。
 
 
 
この「プロセス」というのは、
「試行錯誤」の連続であって、
 
 
それは、
見えない「努力」でもあり、
愚直に「やり続ける」ことでもあるのですが、
 
 
その「やり続ける」、
ということばかりに囚われて、
 
 
同じ「プロセス」ばかりを
「繰り返し」てしまう、
 
 
という危険性があることに、
意識をすることも必要です。
 
 
 
 
 
同じ「プロセス」ばかりを
「繰り返す」のですから、
 
 
当然ながら、
得られる「結果」は同じで、
異なる「結果」は得られません。
 
 
 
 
そして、
私達が求めているのは、
 
様々な「プロセス」から、
どのような「結果」が生まれるのかを、
確認したいのであって、
 
 
ただひたすらに、
同じ「プロセス」から、
同じ「結果」が出ることを
確認したいのではないはずです。
 
 
 
 
同じことをしていても、
同じことしか得られないのです。
 
 
 
 
古い言葉に、
 
『狂気とは、
同じことを繰り返し行い、
違う結果を期待すること』
 
というものがあります。
 
 
 
私達は、
このような「狂気」から、
一刻も早く抜け出さなくてはなりません。
 
 
同じことばかりするのは、
確かに「楽」なことかもしれません。
 
 
ですが、私達は、
異なる「結果」を得るために、
日々、様々な挑戦をしているのです。
 
 
 
異なる「結果」を得るためには、
異なることをしなくてはならないのです。