Philosophical Thinking

~~全ては「自分を知る」ことから~~【21日間で成功習慣を身に付ける】

「迷い」を払拭

 
何事においても、
「決める」ことが大事、と言われています。
 
 
 
ですが、
自分でも「決めた」はずなのに、
 
それを、行動に移せないことも
あるのではないでしょうか。
 
 
 
 
もしかしたら、それは、
 
「決めた」のではなく、
「決めたつもり」になっているだけで、
 
 
まだ、
「迷い」や「未練」が、
断ち切れていないのかもしれません。
 
 
 
 
 
とにかく、
行動せずにいれば、
 
それだけ、
やるべき「タイミング」を失い、
余計な「思考」や「迷い」が増すばかりです。
 
 
 
とはいっても、
 
「迷う」ことが、
決して「悪い」わけではありません。
 
 
 
「迷い」は、
あって然るべきものですし、
 
「迷って」動けないのなら、
 
それがはっきりするまで、
「迷う」しかないのです。
 
 
 
 
 
そして、
「迷う」ことによって、
 
新しい「考え」や「アイデア」が、
生まれるのであれば、ともかく、
 
 
「同じ」ことばかりを、
頭の中で逡巡させているだけでは、
 
事態は、
何も変わらないことも確かなのです。
 
 
 
結局、
何も変わらないのであれば、
「迷う」ことに、あまり意味はないので、
 
 
「迷った」末に、
何も出てこないのであれば、
 
 
とにかく、この状況から、
脱却するようにしなくてはなりません。
 
 
何でもよいので、
状況を変えることをするのです。
 
 
 
 
そもそも、
「迷う」というのは、
 
何が「問題」なのかが分からないから、
 
「判断」出来ずに、
「迷う」のではないのでしょうか。
 
 
 
その「問題」も、
 
物事が動かなければ、
目に見える形で、
浮かび上がってくるものでもありませんので、
 
 
 
そうであるならば、
 
まずは、
何か行動してみるしかなく、
 
その上で、
更に「迷え」ばよいだけのことなのです。
 
 
 
 
「迷って」いてばかりでは、
「問題」すら見えてくることはなく、
 
 
「問題」が見えなければ、
「解決」のしようもないのです。
 
 
 
「迷い」を払拭するためには、
「問題」を見えるようにするしかなく、
 
 
そのための何かしらの、
「一歩」が必要なのです。
 
 

「変化」に「寛容」

 
私達の今いる、
世の中というのは、
 
 
今のこの時代「固有」の、
「常識」や「法律」、
「倫理観」等で築かれた、
 
 
共通の「ルール」、
共通の「価値観」、
 
 
によって、
成り立っています。
 
 
 
 
そして、
これらは、決して、
「永久不変」のものでもなく、
 
 
たまたま、
今の時代において「適用」されている
ものでしかないのです。
 
 
 
 
 
社会や経済の状況が、
「変われ」ば、
 
 
今までの「ルール」や「常識」、「価値観」が、
容易にひっくり返ってしまうのは、
必然なことで、
 
 
これまで、
「善」だとされていたことも、
一転して、
「悪」に転じてしまうこともあるのです。
 
 
 
つまり、
如何様にも「変わる」可能性がある、
ということなのです。
 
 
 
 
そして、
たとえ、
そのような状況になったとしても、
 
 
それでも、
私達は、その「変化」に、
対応し続けなければならないのです。
 
 
 
「変化」に、
「寛容」でいなくてはならないのです。
 
 
 
 
私達が今、持っている
「価値観」、「観念」でさえ、
 
 
あくまで、
今の世の中を生きていくために、
必要なものでしかなく、
 
ある意味、
「方便」、「手段」でしかないとも
言えるのでしょう。
 
 
 
 
 
これからの世の中、
 
いつ、どのように「変わって」いくかは、
誰にも分かるものではありません。
 
 
 
 
私達は、いつでも、
「変わる」準備をしておく必要があるのです。
 
 
 
どのような「変化」であっても、
「寛容」でいる必要があるのです。
 
 

「虚心」を思い出す

 
私達は、
「学べ」ば、「学ぶ」ほどに、
多くのことを知ることが出来るのですが、
 
 
 
その一方で、
 
理論や、基礎、
世の中の常識やルール等・・・
 
様々な「縛り」に、
「囚われて」しまうことにもなるのです。
 
 
 
 
これは、ある意味、
自分の考えや発想を生み出すことを「阻害」し、
 
自分自身をも
「制限」してしまうことにも繋がるのです。
 
 
 
 
 
「学ぶ」ことは、勿論、
大事なことではありますが、
 
 
それと同じくらいに、
「学ぶ」時には、常に、
「虚心」を忘れてはいけない、
 
ということなのです。
 
 
 
 
「虚心」とは、
 
わだかまりを持たない、
先入観を持たない、
素直な心、
 
を意味します。
 
 
 
 
誰にとっても、
身に覚えのあることかもしれませんが、
 
 
 
今まで知らなかったこと、
見たこと、聞いたことのないことを、
すぐに信用して、流されてしまったり、、
 
 
著名な人や影響力のある人の発言である、
ということだけで、
どうしても正しく思えてしまったり、、
 
 
何かを知れば、
分かった「つもり」になって、
知ったかぶりをしてしまう。。
 
 
 
大事なのは、
その「中身」であるにも関わらず、
 
それ以上に、
自分の中にある先入観や固定化した思いによって、
 
 
自分にとって、
「都合のいい」ように「解釈」してしまうのです。
 
 
 
 
私達は
何かを知れば知るほど、
先入観やわだかまりは持ってしまうものです。
 
 
生きている限り、
逃れられるものではないでしょう。
 
 
 
だからこそ、何度でも、
「虚心」でいることを思い出すのです。
 
 
 
 
「虚心」でいることが、
今の自分を成長させ、
 
 
今まで見えなかったものが、
見えてくるのかもしれないのです
 
 

「自分」を知ることの意味

 
人には、
生まれ持っての「性格」や「才能」、
というものがあって、
 
 
そのような「自分」が、
 
いったい何者で、
何をするために生まれてきたのか、、
 
 
「自分」というのは、
探求すべき最大の対象であり、
 
 
「自分を知る」というのは、
人生における一つのテーマなのです。
 
 
 
 
 
また一方で、
 
「自分を知る」というのは、
 
思い通りの「自分」になるための、
一つの手段に過ぎない、
ということでもあるのです。
 
 
 
 
「自分を知る」ということは、
 
則ち、
「自分」の力を、
自由に使うことが出来る、
 
ということでもあって、
 
 
つまり、
「自分」の意思で、
何かをすることが出来る、
 
ということなのです。
 
 
 
「自分」の思い描く「自分」に、
近づくことが出来るのです。
 
 
 
 
 
大事なのは、
 
「自分を知る」ということは、
決して、
「ゴール」ではない、ということ、
 
 
あくまで、
「スタート」地点に立ったに過ぎない、
ということなのです。
 
 
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人生は、
自分を見つけるためにあるのではなく、
自分を創造するためにある。
 
だから、
思い描く通りの人生を生きなさい。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
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「無用の用」

 
今の現代は、
 
常に、
「役に立つもの」、
 
もしくは、
「合理的」で「生産的」であることが、
強く求められ、
 
 
一方で、
「役に立たない」ものは、
どんどん排除されていきます。
 
 
 
 
「役に立たない」のだから、
「不用」としてしまうのは、
 
至極、当然のことなのかもしれません。
 
 
 
 
 
ですが、
その「役に立たない」ように、
見えてしまうのは、
 
 
実は、
自分の視点に、
「偏り」があることを示しているのかもしれません。
 
 
 
 
 
「役に立たない」ものが、
 
本当に、
「不用」なものであるならば、
 
 
そもそも、
この世に存在することはなく、
 
もしくは、
存在していたとしても、
既に淘汰されてしまっていて、
やはり、今は存在していないはずなのです。
 
 
 
 
 
ですから、
今、ここに存在しているもので、
 
 
「役に立たない」ものは、
「何一つない」、
 
 
ということでもあるのです。
 
 
 
 
 
『無用の用』・・・
一見、「役に立たない」と思われるものが、
実は大きな役割を果たしている
 
 
 
 
 
今の私達にとっては、
 
 
「役に立たない」ものばかりのようにしか、
見えていないのかもしれません。
 
 
 
 
ですが、それこそ、
 
「無用の用」
でもあり、
 
 
「役に立たなさそう」に見えるものが、
実は大事なことだったりするのです。
 
 
 
まさに、
 
物事の「本質」は、
目に見えないところにある、
 
とも言えるのでしょう。
 
 

「変わり続ける」自分

 
私達は毎日、
様々な「経験」を経ています。
 
 
 
それらは、
どのような些細なものであっても、
 
 
全てが、
「学び」であり、
「成長」させてくれるものなのです。
 
 
 
そして、
その毎日の「学び」や「成長」が、
 
私達に、
「変化」をもたらし続けているのです。
 
 
 
性格、趣向、外見等、
全てにおいて、
 
 
一日たりとも、
「変化」をしないことはなく、
 
 
既に、昨日とは、
「同じ」自分ではないのです。
 
 
 
 
 
 
一方で、
 
「自分は〇〇な人である」と、
 
自分自身を
変わることのない、
「固定化」させた存在、
 
として扱おうとすることもあります。
 
 
 
 
勿論、
 
そこには、
変わることのない
自分の「個性」や「特徴」を
認識しておく必要もあるのですが、
 
 
 
その変わらないと思っている
「個性」や「特徴」でさえも、
 
 
「変化している」可能性がある、
 
 
ということを
忘れてはなりません。
 
 
 
 
仮に、
過去の自分が、
「〇〇」であったとしても、
 
 
今の自分には、最早、
当てはまることはないのかもしれないのです。
 
 
 
 
私達は、どのようにも、
 
「変わることが出来る」、
「変わり続けている」、
 
存在なのです。
 
 

「鈍感」でいること

 
私達には、どうしても、
 
周囲の事に、
「敏感」になり過ぎることで、
疲弊してしまうこともあります。
 
 
 
直接、
自分とは関係のないことであっても、
 
自分の事として、
「受け止めて」しまうのです。
 
 
 
 
一方で、
 
たとえ、
自分の周囲の出来事であっても、
 
全て、
自分事としての「視点」を持つ、
ということも、
 
生きる上においては、
大事なことではあるのですが、
 
 
 
冒頭の、
自分事として「受け止める」
こととは、
 
全く「別」である、
ということを認識しておく必要はあるでしょう。
 
 
 
 
言葉のニュアンスは、
近いかもしれませんが、
 
 
自分事の「視点」を持つ、
というのは、
 
あくまで、
「客観的」な見方であるのに対し、
 
 
自分事して「受け止める」のは、
「主観的」な見方であり、
 
 
両者の見方は、
全く異なるのです。
 
 
 
 
そして、
「主観的」に見てしまうからこそ、
周囲からの影響も受けやすくなり、
 
 
どんな些細なことであろうとも、
 
周囲と同じように、
同情したり、驚いたり、悲しんだり・・
 
 
 
「同調」することで、
 
自分の心も囚われてしまうので、
冷静な判断も出来なくなるでしょう。
 
 
更に、
 
本来、
自分が影響を受ける必要のない、
ことのはずだったのに、
 
 
結果的に、
自分を苦しめることにもなるのです。
 
 
 
 
 
 
私達は、
社会や周囲に適応するために、
 
 
それらに対し、
「敏感」にならざるを得ない、
のですが、
 
 
いつの間にか、
それでいることが、
当たり前になってしまい。
 
 
自らを、
「窮屈」にさせてしまっているのです。
 
 
 
そして、
それでいることによって、
 
 
「ゆとり」や「余裕」すらも
失わせてしまうことになるのです。
 
 
 
 
全てにおいて、
「気にしすぎ」なのです。
 
 
 
 
 
私達は、周囲に対して、
 
もっと意識的に、
「鈍感」にならないといけないのです。
 
 
 
「鈍感」でいるからこそ、
 
誰にも、何事にも、
揺さぶられることもありません。
 
 
 
本来の、
自分自身でいることが出来るのです。