哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

「自分」を認識する

自分の「特徴」や「個性」というのは、
確かにあるのですが、
 
 
自分でも分かっているようで、
分かっていないことも多く、
 
 
「自分から」みた自分と、
「他人から」みた自分とでは、
異なる別の側面があり、
 
 
自分の中には、
様々な面があるものだと、
思い知らされることも多々あるのです。
 
 
 
そして、
「自分を正しく認識する」
という観点からすると、
 
 
自分からみた自分と、
他人からみた自分との
ギャップが少なければ少ないほど、
「認識は正しい」といえ、
 
 
そこの認識に、
「ズレ」があったり、
「乖離」があったりすると、
 
 
自分の能力を見誤り、
自らの可能性を見過ごしてしまうことにもなるのです。
 
 
また、
「ズレ」や「乖離」があることを
認識していたとしても、
 
 
そこから、
「自分を省みる」ことをしない、
 
 
つまり、
頑なに、「自分から」みた自分しか
「認めようとしない」
のも同じことなのです。
 
 
 
 
人の悩みの中の一つに、
「自分のことが、よく分からない」
 
ということを聞く機会が、
多くあることを感じます。
 
 
 
それは、結局のところ、
 
 
「自分から」みた自分、しか、
 
「見ようとしない」、
「認めようとしていない」、
 
からでもあるのです。
 

 
そもそも、 
他人は、
自分にとって「鏡」の存在でもあり、
 
 
他人を観察することは、
他人だけでなく、
自分自身をも観察することでもあるのです。
 
 
 
観察したら、しっかり認識するのです。
 
 
そこに見えている人が、
どのような人なのか、
 
それは紛れもない自分の姿なのです。
 
 

「当たり前」のこと

今では「当たり前」の、
生活様式、社会ルール、お金、
住居、仕事、その他・・・
 
 
「自然以外」の全ての物事は、
「人の意志」によって、全て作り出され、
人の手によって、全て管理、運営されているものです。
 
 
これらの「仕組み、ルール」は、
長い時間をかけて、先人達によって、
作り上げられたものです。
 
 
そして、私達は現在も、
これらの「仕組み」を利用しながら、
また、もっと良いものへと更新しながら、
生きているわけでして、
 
 
何か新しいことを考えるにしても、
これらの既存のものをベースに、
物事を考えることが、大前提にあるのです。
 
 
昨今、急速に発展しつつある最新技術であっても、
全ては、この前提の範囲を逸脱するものは、
何一つないのです。
 
 
 
この前提は、
「当たり前」といえば「当たり前」で、
 
この前提抜きに、物事を考えるのは、
とても非現実的なものでもあるのです。
 
 
つまり、
全ての物事は、
過去に作り上げられたものをベースにした上で 
 
様々なアイデアが生まれ、
生活をより便利にしてくれているのです。
 
 
 
ですが、
これらの物事は、
あくまで先人達が作り上げてきたもの、
 
もともとは「存在しない」ものなのです。
 
 
それにも拘わらず、
この前提というのが、
あたかも「不変」で、
「当たり前」のごとく存在し、
 
 
それが、私達の「思考」や「意志」を
制限させてしまっている、
ということも否めない、のです。
 
 
 
世の中のあるゆるものは、
「人の意志」によって作られてきました。
 
 
「人の意志」はそれだけ大きく、
無数の可能性を秘めているのです。
 
 
だからこそ、
今ある「当たり前」に、
囚われてしまってはいけないのです。
 

「プラス」と「マイナス」

「ポジティブ」でいることの重要性は、
大抵の人が気にしていることですが、
 
 
それを気にするあまり、
 
逆に「ネガティブ」なことを
より強く意識してしまう、というのは、
よくあることです。
 
 
 
そもそも、
物事には、常に「両方の側面」が存在し、
 
「プラス」が存在するということは、
「マイナス」も同じように存在するのです。
 
 
「マイナス」の存在を知らなければ、
「プラス」の存在を知ることはなく、
 
「プラス」の喜びがあるから、
反対に、
「マイナス」の怖さを感じるのです。
 
 
 
言い換えると、
 
「大きな失敗」をしなければ、
「大きな成功」は望めず、
 
「失敗を小さく」したまま、
「成功を大きく」望むのは難しいのです。
 
 
それは、
仮にうまく成功したところで、
後に、大きな失敗として、
「跳ね返ってくる」だけのことなのです。
 
 
 
更に言うと、
 
「大きな失敗」をすれば、
それを「大きな成功」に転じることが出来る、
 
ということでもあるのです。
 
 

ですから、 
今、何かに「悩み、苦しんで」いることが、
あるとするならば、
 
それは、
自分を飛躍させる「大きなチャンス」
でもあるのです。
 
 
 
だから、
「ネガティブ」なこと、
「マイナス」なことに対し、
極端に恐れる必要はないのです。
 
 
全ては、
「ポジティブ」に、
「プラス」に転じることが
出来るのですから。
 

経験の「意味」

人生は、「経験」が全てであり、
全ては、「積み重ね」なのです。
 
 
何かをするためには、
「努力」が不可欠である一方、
全ての「経験」も活かしきるべきなのです。
 
 
既に、
「目標」や「志」を失ってしまったことに関しては、
いつまでもこだわり続ける必要はありませんが、
 
 
そもそも、何かの「縁」があって、
その「目標」にたどり着いたのであるのならば、
 
 
その「意味」というものを今一度、
「考える」べきなのです。
 
 
今までやってきたことを、
「軽く」扱ってしまってはいけないのです。
 
 
 
 
全ての「経験」には、「意味」があり、
「無駄な経験」というものは、
何一つ存在しないのです。
 
 
ただ、それをどのように意味づけるかは、
全て、自分次第。
 
 
もし、後から振り返ってみて、
その為に「必要なこと」だと、
 
捉えることが出来るのであれば、
 
 
それは則ち、
 
全ての過去は、
今の自分を作り上げるための、
「必然」の出来事であると
「意味」づけられるのです。
 
 
 
そのように考えれば、
 
どのような「過去」や「経験」であっても、
全ては「学び」であり、
いかようにも「活用」出来るのです。
 
むしろ、
「無理矢理」にでも「絞り出して」、
考えるべきことなのです。
 
 
それが出来ない、と思ってしまうのは、
 
自分の中で「フィルター」をかけているだけに過ぎず、
まだまだ「考える余地」は、あるはずなのです。
 
 
簡単に諦めてはいけません。
 
今までの自分のやってきたことには、
必ず「意味」があるのですから。
 
 

一番は「楽しむ」こと

論語」の言葉に、
以下のような文言があります。
------------------------------
これを「知る者」は、
これを「好む者」に如かず。
 
これを「好む者」は、
これを「楽しむ者」に如かず。
------------------------------
 
 
訳すると、
 
「何かの物事について、
その知識を知っている人は、
それを好きな人には及ばず、
それを好きな人は、
それを楽しんでいる人に及ばない」、
 
となり、
 
少し言葉を変えると、
 
「知識として知っているだけよりは、
それを好んでいる人の方が上手であり、
更に、
それを楽しんでいる人の方が、もっと上手である」
ということで、
 
 
一言でいうと、
 
「楽しんで突き詰める」人には、誰も敵わない、
 
のです。
 
 
 
では、
「好き」と「楽しい」の違いとは何でしょうか。
 
意味としてはとても似ている感じもあり、
違いとは、どこにあるのか、
ということになりますが、
 
それは、以下のように定義出来ます。
 
------------------------------
「好き」:
心が反応する、心惹かれている状態
 
「楽しい」:
実際に行動して、
心と体の両方でその体験を味わっている状態
------------------------------
 
 
つまり、
「行動」するところに違いがあるのです。
 
 
そして、これは、
人は「行動」が全て、という観点から考えても、
 
「楽しんで」いる人に敵わない、
というのは、道理でもあり、
 
 
何よりも一番は、
自分が「楽しむ」ことなのです。
 
 
 
 
貴方は、何をしている時が、
「楽しい」と感じることが出来るのでしょうか。
 
 
ここに、
自分にとって、よりよく生きるための、
「ヒント」が隠されているのです。
 
 

「大切なこと」をする機会

時間は短いようで長く、長いようで短い。
 
 
時間の流れは、
「一定」で、「規則的」で、
 
「止める」ことも、
「遡る」ことも、
「貯めて」おくことも出来ず、
何かと「交換できる」ものでもないのです。
 
 
 
スティーブ・ジョブズは、
時間を以下の通り表現しています。
------------------------------
この地上で過ごせる時間には限りがある。
本当に大事なことを、本当に一生懸命できる機会は、
二つか三つくらいしかない。
------------------------------
 
 
私達は、
 
時間が有限で、
これほどまでに貴重なものは他にはない、
 
ということはよく理解しており、
 
 
また、ジョブズの言葉の通り、
人生を賭けて取り組める物事というのは、
僅かに二つか三つ、しかないというのも、
 
まさにその通りなのだと思います。
 
 
 
人は日々、
仕事、勉強、休息、等様々な活動をしています。
 
 
そして、それは何であろうと、
人の「大切な行為」
であることに変わりはなく、
 
その「行為」が、
貴重なものと思えなければ、
取り組むべき物事ではない、
 
のです。
 
 
例えば、
何かの仕事をすることで、
 
身体を壊したり、
家族関係に悪影響を及ぼしたりする場合、
それが「生活の糧」だとしても、
果たしてその仕事に続ける価値があるのかどうか。
 
 
もしくは、仕事の内容や職場の雰囲氣に、
「不安」や「恐怖」で心が満たされるのに、
その仕事が、自分にとってありがたい仕事なのかどうか。
 
 
 
 
自分にとって、
「大切なこと」でないのであれば、
それは「やるべきこと」ではないのです。
 
 
そして、そのような状況を変えようという
「意志」を持たずに、現状に甘んじるのは、
「最悪の選択肢」でもあるのです。
 
 
もはや、躊躇する余裕はないのです。
 
私達が取り組める大切なことは、
たったの「二つか三つ」しかないのですから。

「意志力」を強く

「人間関係」の問題は、
 
人が複数集まるところであれば、
大なり小なり必ず起こるものであり、
「避けては通れない」問題でもあります。
 
 
それは、
人が集まることによって、
その集団の中での「優劣」を決めるという
「本能」から、
 
「マウンティング」という行動によって、
問題へと発展していくのです。
 
 
 
そして、
その「優劣」を決める一番の要素というのが、
 
「意志」の強さなのです。
 
 
 
現代だと、
特に、会社のような組織においては、
 
 
以前においては、「年功序列」であり、
最近においては、「能力主義
 
 
が「優劣」を決める判断のベースとされています。
{それによって職責、職権が決められます)
 
 
 
ところが、
いざ、重要な「意思決定」の場面においては、
上記の「優劣」の基準とは別に、
 
「意志の強さ」が、最もモノをいうのです。
 
 
 
「年齢」や、
仕事における「処理能力」とは、
全く関係なく、
 
 
人の上に立ち、組織として纏めるには、
それなりの「意志」の強さと、
「覚悟」を持たなければならないのです。
 
 
 
人はどうしても、
「意志の強い」人になびき、従ってしまうもので、
 
 
残念なことに、それがたとえ、
 
「非合理」で「正しくない」、
 
と思われることでさえであってもなのです。
 
 
これは、故事ことわざの
「無理が通れば、道理が引っ込む」
にも表現される通りなのです。
 
 
 
人と人とは、「無意識的」に絶えず、
「意志力」の押し合いをしており、
 
 
「意志力の弱い」人は、常に、
「意志力の強い」人に従わざるを得ない、
 
 
そうであるのならば、
自ら好んで「弱い」側にいる理由は、
何一つないのです。
 
 
もし何かについて、
「非合理」で「正しくない」、
と思うことがあるのならば、
 
それに「反発」する「意志」を示すのです。
 
 
その「意志」を示すためには、
「自信」と「勇氣」と「行動」
 
が必要であり、
 
 
それは、則ち、
自分を強く信じること=「自信」、
信じたことを実行するための決断=「勇氣」、
決断したことを実行=「行動」
 
 
これらの要素が必要不可欠なのです。