哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

依存と自立【再掲】

 
誰にとっても、リスクは怖いものです。
 
 
 
そして、
そのリスクを恐れるからこそ、
 
強い人に守ってもらいたい、
誰かの保護下にいたい、
 
と思ってしまうこともあると思います。
 
 
 
それは、結局、
 
自らの力で何かをする、
 
ということをリスクとして捉えるからであって、
 
 
そこには、
 
自分には何も出来ない、
 
という思い込みが根底にあるからなのです。
 
 
 
 
 
しかしながら、
 
誰かの保護下に身を置く、ということは、
 
 
則ち、
誰かの言いなりになる、手足になる、ということも同じで、
都合の良い道具になる、とも言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 
政治や経済といった、
世の中の全ての仕組みというのは、
 
 
多かれ少なかれ、
様々なシステムに基づいて動いています。
 
 
 
システムは、
人類が誕生した時からあるものではなく、
 
 
誰かが、
何かしらの意図を持って作り出したものであり、
 
その中身が公正で、平等である、ということはあり得ません。
 
 
 
必ず、
その作った当事者にとって都合のよいルールがあって、
 
 
そのシステムを利用するならば、必ず、
そのルールに従わざるを得ないのです。
 
 
 
 
つまり、
 
リスクを避けるために、
誰かに頼る、もしくは依存する、
 
 
ということが、逆に、
 
とてもリスクのあるもの、
 
であるということを、
私達は気が付かなければなりません。
 
 
 
 
 
そして、
 
自分には何も出来ないから、頼るしかない、
 
というのもただの思い込みに過ぎないのです。
 
 
 
自分には、
まだ何も実績はない、というのも関係ないのです。
 
 
 
他の成功者を見ても、
誰もがはじめから何かがあったわけではなく、
 
 
ただそれでも、
自分が出来る、という根拠のない自信があったからこそ、
事を為したのであって、
 
 
出来ない人、
というのは誰一人存在しないのです。
 
 
 
 
頼るべきものは、自分しかいないのです。
 
 
自分がやるのか、どうか、
 
それが全てなのです。
 
 

答えの在り処【再掲】

 

私達は、どうしても、
答えは一つである、ということに拘りがちです。
 
 
 
答えが一つしかなければ、
 
他の答えがなんであろうと、
疑うことなく、それを信じていればいいのですから、
 
 
自分で、
そのことについて考える必要もないですし、
 
何しろ、
安心感を得ることが出来るのです。
 
 
 
 
そして、
ひとたび、これが答えである、と、
 
自分の中で確信を持つと、
その答えを後生大事にしようとするのです。
 
 
 
それどころか、
それに相反する生き方や答えを持つことを、
 
心のどこかで、
非難したり、見下したりしてしまうのです。
 
 
 
自分にとって、
その答えは、絶対に正しいものでないといけないからです。
 
 
 
 
 
 
しかしながら、
 
答えが一つではない、ということも、
誰もが知っているはずです。
 
 
 
 
常に、答えはいくつもあり、
 
そのどれが正しくて、どれが誤っている、
というものはないのです。
 
 
 
何を選択してもいいですし、
いつでも、選択したものを変えてもいいのです。
 
 
 
 
物事に、
不変なものはないのですから、
 
 
いつでも柔軟に、
その時に自分が最善だと思うことをやるだけなのです。
 
 

何も持たない生き方【再掲】

 
『人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死ぬ』
 
 
 
私達は、これまでに、
 
数多くの知識や技術を身に付け、
人間関係を構築してきました。
 
 
 
これらの目的を一言で言うと、
 
 
生きるため、
ということに集約されてしまうのですが、
 
 
 
冒頭にもある通り、
 
 
私達は、誰もが、
何も持たない状態で生まれてきて、
 
 
いずれ、この世を去る時も同じように、
何も持つことはありません。
 
 
 
つまり、はじめから、
何も持っていない、ということなのです。
 
 
 
 
 
 
ところで、私達は、
何かことに当たる時には、常に、
 
何かの準備や前知識、先入観を持っていくことが、
いわば当然のこととなっています。
 
 
 
しかしながら、
それらを持ってしまったことによって、逆に、
 
 
正しい判断を見誤ってしまった、
というのは、よくある話だと思いますが、
 
 
 

本当に重要で、大切なことを見ようとしたら、
前例や先入観ほど不要なものはなく、
 
 
結果的に、
判断を見誤る、ということになるのです。
 
 
 
 
 
 
何かを持つということは、ある意味、
 
 
それにすがったり、依存してしまう、
ということなのです。
 
 
 
本当に頼るべきは、
自分自身であり、自分の感覚そのものなのですが、
 
 
私達の周りには、
余りにも余計なものばかりに囲まれてしまっていて、
 
 
これに頼ろうとすることで、
判断に迷い、よく分からなくなってしまうのです。
 
 
 
 
 
私達には、
自分の身以外に必要なものは何もなく、
 
 
あえて、何も知らずに、
あえて、何も見ないで、
 
ことに挑む、ということも必要なのです。
 
 
 
無駄な部分を全て削ぎ落とさなければ、
大事なことはよく見ることが出来ないのです。
 
 
 
何も持たないことの必要性を、
私達はもっと知る必要があるのです。
 
 

怒りの原因【再掲】

 
人間関係において、
 
 
自分が善意でやった行為なのに、
逆に、相手を怒らせてしまったり、
 
 
同じように、
 
自分が、
相手の善意を受けながらも、それに反して
怒ってしまうことがあると思います。
 
 
 
 
 
善意でやったことを、
真逆の状態で返されてしまうのですから、
 
 
返された側の怒りや苦しみは、
本人以外には計り知ることは出来ないでしょう。
 
 
 
 
 
受けた苦しみに対しては、
相応の苦しみでもって返したい、と思うところですが、
 
 
それが、
賢明な判断ではない、ということも、
誰もが認識しているものだと思います。
 
 
 
 
 
そもそも、
怒りというのは、一過性のもので、
 
そのことに関する様々な思考も、
その瞬間に沸いたものに過ぎません。
 
 
 
また、
自分と相手の人とは、
異なる人間なのであり、
 
その思考も感情も、違っていて当然なのです。
 
 
 
 
たまたま、今回、
相手の意に沿わないことが起きてしまっただけであって、
 
 
時と場所が変われば、
 
全く逆のことを、
自分が相手に対して行う可能性もあるのです。
 
 
 
 
決して、
自分のことを否定されたのではなく、
自分の行為が、相手の意に沿わなかっただけのこと、
 
 
相手の解釈が、
自分と異なるだけのことに過ぎないのです。
 
 
 
 
自分に向けられた思考や感情が、
 
それが、
そのまま自分の人間性を表現しているのではない、
ということを理解していなければなりません。
 
 
 
相手の不興を買ってしまったからといって、
 
その通りに、自分を評価したり、
自分のことを自分で否定したりしてはいけないのです。
 
 
 
 
 
他人のことを、
 
自分と同じ目線で見ようとするから、
怒りを覚えるし、苦しくなるのであって、
 
 
自分と他人は、
そもそも何から何まで違うのです。
 
 
自分と同じ目線で見ようとしてはいけないのです。
 
 

自分にこだわる【再掲】

 
自分に起きていること、
則ち、
 
自分の人生とは、
自分だけしか経験することのない唯一のものです。
 
 
 
 
そんな自分の人生を振り返って、
 
 
自分の生き方は失敗だった、とか、
今の自分は本来あるべき姿ではない、等といった、
 
 
思いに駆られてしまうこともあるかと思います。
 
 
 
 
しかしながら、
自分の人生は、自分だけのものであって、
 
 
いつでも本番で、
やり直すことも、代替のきくものでもありません。
 
 
 
今の自分の生き様が、
まさに本来の姿であり、失敗でも成功でもないのです。
 
 
 
 
 
だからこそ、
 
今も、これからも、
 
どのような自分でいたいのか、ということに、
徹底的に拘るのです。
 
 
 
今までの自分がどうだったか、ということは、
全く関係ありません。
 
 
 
今の自分というのは、
過去の自分からの延長ではないのです。
 
 
 
在りたい自分のために、
今やれることに集中するのです。
 
 
 
 
大事なのは、
 
いつでも、
自分はどう在りたいのか、ということ、
 
 
ただそれだけなのです。
 
 

感情のコントロール【再掲】

 
私達は、
感情に左右される生きもので、
 
 
その感情は、
事あるごとに、浮き沈みを繰り返し、
 
 
どのような人であっても、
その浮き沈みから逃れることは出来ません。
 
 
 
ポジティブとネガティブの感情を、
交互に繰り返しているのです。
 
 
 
 
とりわけ、
 
怒りの感情というのは、
 
誰もが避けたいと思いながら、
なかなかコントロール出来ずに苦労していることだと思います。
 
 
 
 
怒りを覚えた時、私達は、
瞬間的にこれをどうするかを考えます。
 
もしくは、
考える間もなく、反射的に反応しているかもしれません。
 
 
 
 
感情を表に出せば、
 
自分はそこで発散されるかもしれませんが、
周囲や人間関係に悪影響を与えてしまうのは、
目に見えています。
 
 
 
一方で、
 
我慢すれば、
その場は何事も起きることはありませんが、
 
抑え込んだ怒りは、
心の奥に溜まったまま、
いつかのタイミングで暴発するだけなのです。
 
 
 
 
怒りを感じ、
 
自分で、怒ってはいけない、
 
と言い聞かせても、
抑え込むことが難しいこともあります。
 
 
 
相手の人を赦そうと思いたくても、
怒りの感情が勝ってしまうこともあるのです。
 
 
 
 
 
 
感情とは、
 
瞬間的に湧き上がった後、
一定の間(90秒間)、自分の体に留まり、
 
次の瞬間には、消えていくものと言われています。
 
 
 
しかしながら、
その感情を、
引き続き自分の中に留めてしまうことも出来るわけで、
 
 
それは、
その感情を、自らが長引かせるように選んだから、
とも言えるのでしょう。
 
 
 
 
つまり、
 
自分で、怒りを選択している、
と言えるのですが、
 
 
 
実質的には、
 
選択せざるを得ない状態に陥っているだけで、
 
 
それは、
 
感情に乗っ取られてしまっている、
ということでもあるのです。
 
 
 
 
感情は、
 
元々、一定の間を過ぎれば、
跡形もなく過ぎ去っていくのですから、
 
 
あえて、
自分の中に留める必要はないのです。
 
 
 
何が湧いてきても、ただ静観する、
 
それが、
感情をコントロールする、ということなのです。
 
 
 
 
感情の赴くままでいることは、
 
もはや、
感情の奴隷、でしかありません。
 
 
 
 
私達は、
 
常に、感情を自分でコントロールすることが出来るのですから、
感情に振り回されてはいけないのです。
 
 
怒るかどうかも、
自分が決めてコントロールするのです。
 
 

自分のイメージからの脱却【再掲】

 
私達は、
周囲の誰かに対して、それぞれについて、
何かしらのイメージを持っていると思います。
 
 
 
その人は、確かに、
そのイメージ通りの一面もあるかもしれないけど、
 
 
必ずしも、
そのような人だとも言い切れるものでもありません。
 
 
 
あくまで、
自分の思い込みによって、
作り出された一つのイメージでしかないのです。
 
 
 
 
 
逆に、
 
その人は自分のことを、
どのように見ているのでしょうか。
 
 
 
自分が自分に対して持っているイメージとは、
また異なるイメージを持っているものと思われます。
 
 
 
 
自分が知っている誰か、というのは、
 
誰一人として、
自分が思っているような人ではないのです。
 
 
 
同じように、
 
その誰かが自分を見る時も、
 
自分がイメージしているようには、
自分のことを見ていない、
 
 
ということを理解しなくてはなりません。
 
 
 
 
 
私達は、一人の人間として、
今ここに存在していますが、
 
 
それとは別に、
 
自分のイメージの中で存在し、
他人のイメージの中でも存在しているのです。
 
 
 
そして、
 
そのどちらかが正しくて、
どちらかが間違っている、
 
 
ということでもなく、
そのどれもが、自分の中の一部であって、
 
 
全てが、自分の中の一つの要素として、
存在しているのです。
 
 
 
 
 
誰もが、
 
「自分らしさ」
 
というものを意識し、
そこに拘りを持ってしまいますが、
 
 
 
それも、
自分の中のイメージの世界であり、
自分の思い込み以上の何ものでもないのです。
 
 
 
 
「自分らしさ」に拘ってしまうから、
 
自らの生き方の選択肢を狭め、
生き辛くなってしまうのです。
 
 
 
 
私達は、
あらゆるものから自由なのですが、
 
 
自分自身のイメージからも、
自由でいるべきなのです。