哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

他人より「劣る」もの【再掲】

行動しようとしない人の中には、
 
「自分が他人よりも、『劣っている』」から、
ということを「理由」にして、
 
 
自分が行動しないことを、
「正当化」しよう、
 
とすることを見かけることがあります。
 
 
 
 
私達は、
この世に生を受けてから、
 
これまで生き方は、
それぞれ「異なる」ものではあるものの、
 
こうして、今まで
「生きてきた」わけでして、
 
 
 
単純に、
「生きる」という点においては、
「他人と劣る」ということはあり得ないのです。
 
 
 
ほんの少し、
動作が早かったり、
考えるのが得意だったり、
コミュニケーションを取るのが上手かったり、
 
 
 
と、
社会生活を送る上において、
得意不得意の差というのは、
多少はあるのかもしれません。
 
 
あるいは、
専門性の有無、というものもあるでしょう。
 
 
 
 
ですが、
本来、人のやっていることは、
 
全てが、「シンプル」で、
難しいことは、一つもないのです。
 
 
 
一見、
難しそうな「イメージ」を持ってしまうものも
あるでしょうが、
 
 
それも、自分が勝手に、
「イメージ」しているだけに過ぎず、
 
 
「シンプル」で「容易」なものであることに、
変わりはないのです。
 
 
 
 
 
「他人」が出来るのなら、
「自分」も出来るのです。
 
 
「気後れ」する必要は、何一つないのです。
 
 
 
「他人よりも劣る」から、
と行動しないのは、
 
ただの「怠慢」だということなのです。
 
 

「パターン」」を崩す【再掲】

今までの自分の「パターン」を変えてみる。
 
思考や行動、その他諸々…
 
 
 
 
人は誰もが、
生き方に「癖」をもっていて、
 
本人が望む望まないに拘わらず、
これまでの生き方が、
今の思考や行動を「固定化」し、
 
それが「パターン」となってしまうのです。
 
 
 
「固定化」されているので、
これを変えようというのも、
なかなか容易ではないのですが、
 
 
この今までの「パターン」を変えない限り、
何を行ったとしても、
 
 
ついてくる結果は、全て
「同じ」になってしまうのです。
 
 
 
 
私達の行動は、
そのほとんどが無意識に行っているもので、
 
それは、
「パターン」化されているから、
実現できるのです。
 
 
 
良い習慣を、
「パターン」化させることは、
それはそれで良いことであるのですが、
 
 
一方で、
「あって当然」のものと、
認識してしまうので、
 
盲目的にもなってしまい、
 
 
それ以上、
自分が成長、進歩することも出来なくなってしまうのです。
 
 
 
 
事の大小は関係ありません。
 
とにかく、
今の「パターン」を崩してみましょう。
 
 
ほんの少しでいいので、
自分に「挑戦」してみるのです。
 
 
 
それによって、
「異なる」結果が引き起こされ、
 
 
良くも悪くも、
「新しい」自分が見えてくるもので、
 
 
それが、
自分に対しての「気づき」であり、
「自分を知る」ということに繋がるのです。
 
 

「存在」する理由【再掲】

私達の身の回りのものは、
 
全てが「必要」なものだから、
「存在」しているわけで、
 
「不要」なものであれば、
そもそも「存在」することはありません。
 
 
 
 
これは、
人の食欲や睡眠欲、その他の生理的な反応も、
 
全てが、
自分にとって「必要」なことだから、
ということと同じなのです。
 
 
 
 
そして、
自分の「経験」というのも、
これと全く同じで、
 
 
今、もしくは将来、
「必要」になるからこそ、
 
これまでに様々な「経験」をしてきたわけで、
 
どのような「経験」も、
目には見えなくても、必ず「活かされて」いるのです。
 
 
 
 
「存在」するのは、「必要」だからであり、
「必要」だからこそ、「存在」するのです。
 
 
 
私達自身の「存在」する理由も、
そこにあるはずなのです。
 
 

「腹に落ちる」感覚【再掲】

心から「納得」、「理解」した時の、
「腹に落ちる」という感覚。
 
 
この感覚を得られると、
「迷う」ことや「悩む」ことが、
全くなくなるのですが、
 
 
現実には、
なかなか得ることの「難しい」ことでもあるのです。
 
 
 
 
 
「腹に落ちる」という感覚は、
言い換えれば、
 
 
「100%、完全に信じ切る」
という状態でもあって、
 
 
まさに、
少しの「疑念」や「不安」もない、
状態です。
 
 
 
さらに言い換えると、
 
自分にとっての「真実」を得る、
 
ともいえるのでしょう。
 
 
 
 
 
全ての物事は、
「多面的」な要素を含んでいるもので、
 
 
その中のどれかが、
「正しい」、「間違っている」、ことはなく、
 
 
そのどれもが、全て、
「正しい」わけでして、
 
 
 
そのような中で、
何か「一つ」の側面だけをみて、
 
「腹に落ちる」
「完全に信じ切る」
 
という感覚を得ることは、
とても「難しい」ことだと思うのです。
 
 
 
その見方を打ち消す
「別の」側面が、そこにあるのですから。
 
 
 
 
そして、そのことを
誰でも「頭では理解」しているのですが、
 
やはり、
「腹に落ちる」こととは、全く異なるのです。
 
 
 
 
それにも拘わらず、
自分の心が、
「納得」していないのに、
「納得」する「フリ」をさせていませんか。
 
 
 
自分の心を
「無理矢理」に「納得」させることは、
誰にも出来ません。
 
 
 
私達に出来るのは、
自分の心が「納得」するまで、
 
 
ひたすらに、
「腹に落ちる」瞬間を待つしかないのです。
 
 

「選択」と「結果」と【再掲】

人生は「選択」の連続ですが、
 
とりわけ、
「大事」になればなるほど、
 
 
「後には引き返せない」、
 
という心理が働いて、
時間をかけて、慎重に熟考する、
ものだと思われます。
 
 
 
ですが、
その「選択」をしたにも拘わらず、
思うような「結果」を得られなかった場合、
どうなるでしょう。
 
 
 
当然ながら、
心的ダメージは大きく、
その「代償」として、
 
 
おそらく、誰もが、
その「選択」をした「自分」を罵り、
 
自らを貶める言葉を、
自分に投げかけてしまう、
 
 
ということを、
無意識の内にやってしまっているのだと思います。
 
 
 
 
 
「選択」した時は、
それが「ベスト」だと思ったからこそ、
そのようにしたわけで、
 
 
「結果が伴わなかった」、と分かった瞬間に、
手のひらを返したかのように、
 
 
その「選択」をした自分自身を卑下する、
というのは、
いかがなものでしょうか。
 
 
 
 
 
残念なことに、
今の自分の「状況」というのは、全て、
自分がこれまでに行った「選択」の「結果」であり、
 
 
まさに、
「一事が万事」なのです。
 
 
 
ですが、
その一つ一つの「選択」には、
その瞬間瞬間における「思い」や「考え」が、
あったはずなのです。
 
 
 
 
過去を振り返った時、
起こった「結果」ばかりを見ていませんか。
 
 
その「結果」に至る「選択」や、
そこでの「感情」や「思い」こそ、
 
貴重なもので、
もっと大事にしていかなければならないものではないでしょうか。
 
 

「自分」を生きる【再掲】

私達は、
何か傑出した能力をもっている人、
もしくは、その道のプロや、カリスマ的な存在に対し、
 
「尊敬」や「憧れ」を持つことがあります。
 
 
 
その「思い」を抱くことは、
何かをやるための一つの「きっかけ」として、
決して悪いことではないのですが、
 
 
 
もし、
その「誰か」を「絶対的存在」として捉え、
同じように考え、
同じように行動をしようとするとなると、
 
 
 
いわば、
その人に全てを「依存」することになり、
 
 
「自分」で考え、行動する、
という、
 
「自分」だけにしかできない、
「自分」の個性や生き方を、
自ら「放棄」することにもなるのです。
 
 
 
そして、
いつまで経っても、
 
「自分」のことを認めることが出来ず、
「自分」に自信を持つことが出来ない、
 
という状態に陥ってしまうのです。
 
 
 
 
 
私達は、どこまでいっても、
 
「自分」は「自分」
なのであって、
 
「自分」が「他人」
になることは、
 
絶対に不可能ですし、その必要もないのです。
 
 
 
 
確かに、
「他人」に「依存」し、
その生き方を「模倣」していくことの方が、
 
「楽」なのかもしれません。
 
 
 
 
ですが、
私達は、
「自分」である以外の何者でもないのです。
 
 
「自分」を生きる、
こと以外には、何も出来ないのです。
 
 
 
だから、もっと、
「自分」の思った通りに、考え、行動すればいいのです。
 
 
それが、
私達に与えられた最大の「特権」でもあるのですから。
 
 

「シンプル」でいること【再掲】

私達は、
一人では生きることは難しいです。
 
 
ですので、
よりよく生きるための、
共通の「ルール」を作り、
 
 
それが、
「社会」であり、「常識」であり、
「人間関係」なのですが、
 
 
 
その「社会」というのは、
 
時間が経てば経つほどに「多様化」し、
より「複雑」なものとなってきます。
 
 
 
 
そのような、
「複雑」な「社会」における、
「自分自身」の存在意義を考えた時、
 
 
それは、何かとても
「複雑」で「難解」な存在、
でいなければならない、
 
と思ってしまうことも、
あるのではないでしょうか。
 
 
 
 
「子供」の頃は、
もっと「シンプル」で、
「単純」だったはずなのに、
 
 
「大人」になった今、
様々な人生経験を経て、
変わったところも、当然ながらありますが、
 
 
 
「社会」において存在意義を示すために、
無理矢理、
 
「複雑」で「難解」な存在として、
「自分自身」を作り上げてしまっていることは
ないでしょうか。
 
 
 
 
本当の自分は、
誰もが、「子供」の頃から変わらず、
「シンプル」で「単純」なままなのです。
 
 
 
だから、今も、
「シンプル」で「単純」にすればいいのです。
 
 
そこに、
何ら抵抗感を覚える必要は全くないのです。