「エゴ」の境界線
「エゴ」という言葉は、いわゆる
「エゴイズム」のニュアンスとして、
私達が普段使っているものです。
その言葉の定義としては、
「利己主義」で「自分中心的」
な考え方を指し、
他人の気持ちや幸福を考えない、
思考や行動様式のこと
という意味で、
あまりよいイメージのものではない、
ものだと思います。
ところが、
この「エゴ」における、
「自分と他人との境界線」というのは、
どこにあるのでしょうか。
何かの願望実現を望んだ時に、
それが、
「自分自身」だけのものなのか、
それとも、
「他人」や「社会」のためなのか、
という視点で、
これが「エゴ」なのか、そうでないのか、
と「線引き」されるかもしれないのですが、
「自分自身」のため、といいながらも、
いざ蓋をあけてみると、
それが「他人」のため、
でもあったりすることもあって、
単純に「切り離す」
ことの出来るものでもないのです。
「他人」や「社会」のためといった
社会貢献を果たすためには、
その前提として、
まずは、「自分自身」が強く、
影響力を持たなければならないわけでして、
そのためには、
誰よりも「自分自身」
を優先させなければならないのです。
他方で、
「自分自身」の願望ばかりに、
最初はフォーカスしていていたとしても、
「自分自身」だけというのは、
気宇の小さいもので、いずれ限界があるもので、
見るべき視点は、
「自分」のことよりも
「他人」、「社会」へと自ずと変わるものなのです。
「志、目標、目的、向上心、探求心」
これら全ては「エゴ」から派生したものです。
「エゴ」は、「意志」であり、
「行動」を起こさせるために、
必要不可欠なものであって、
逆に、
強く「エゴ」を持たなければ、
何事も果たすことは出来ないのです。
つまり、
「エゴ」なくして、
今の社会そのものも存在しないし、
「エゴ」があるからこそ、
「希望」や「期待」を持って生きることが出来る、
そのための「原動力」なのです。
私達は、人である以上、
「エゴ」を無くすことは出来ません。
「エゴ」を無くすということは、
言い換えれば、
「どうでもよい」と同じことで、
いわば、
「世捨て人」とも言えるのです。
ですので、
「エゴ」は持つべきものなのです。
問題なのは、
その「エゴ」をどのような方向に活かしていくのか、
そこが大事なことのです。