哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

「自分」を生きる

私達は、
何か傑出した能力をもっている人、
もしくは、その道のプロや、カリスマ的な存在に対し、
 
「尊敬」や「憧れ」を持つことがあります。
 
 
 
その「思い」を抱くことは、
何かをやるための一つの「きっかけ」として、
決して悪いことではないのですが、
 
 
 
もし、
その「誰か」を「絶対的存在」として捉え、
同じように考え、
同じように行動をしようとするとなると、
 
 
 
いわば、
その人に全てを「依存」することになり、
 
 
「自分」で考え、行動する、
という、
 
「自分」だけにしかできない、
「自分」の個性や生き方を、
自ら「放棄」することにもなるのです。
 
 
 
そして、
いつまで経っても、
 
「自分」のことを認めることが出来ず、
「自分」に自信を持つことが出来ない、
 
という状態に陥ってしまうのです。
 
 
 
 
 
私達は、どこまでいっても、
 
「自分」は「自分」
なのであって、
 
「自分」が「他人」
になることは、
 
絶対に不可能ですし、その必要もないのです。
 
 
 
 
確かに、
「他人」に「依存」し、
その生き方を「模倣」していくことの方が、
 
「楽」なのかもしれません。
 
 
 
 
ですが、
私達は、
「自分」である以外の何者でもないのです。
 
 
「自分」を生きる、
こと以外には、何も出来ないのです。
 
 
 
だから、もっと、
「自分」の思った通りに、考え、行動すればいいのです。
 
 
それが、
私達に与えられた最大の「特権」でもあるのですから。
 
 

「シンプル」でいること

私達は、
一人では生きることは難しいです。
 
 
ですので、
よりよく生きるための、
共通の「ルール」を作り、
 
 
それが、
「社会」であり、「常識」であり、
「人間関係」なのですが、
 
 
 
その「社会」というのは、
 
時間が経てば経つほどに「多様化」し、
より「複雑」なものとなってきます。
 
 
 
 
そのような、
「複雑」な「社会」における、
「自分自身」の存在意義を考えた時、
 
 
それは、何かとても
「複雑」で「難解」な存在、
でいなければならない、
 
と思ってしまうことも、
あるのではないでしょうか。
 
 
 
 
「子供」の頃は、
もっと「シンプル」で、
「単純」だったはずなのに、
 
 
「大人」になった今、
様々な人生経験を経て、
変わったところも、当然ながらありますが、
 
 
 
「社会」において存在意義を示すために、
無理矢理、
 
「複雑」で「難解」な存在として、
「自分自身」を作り上げてしまっていることは
ないでしょうか。
 
 
 
 
本当の自分は、
誰もが、「子供」の頃から変わらず、
「シンプル」で「単純」なままなのです。
 
 
 
だから、今も、
「シンプル」で「単純」にすればいいのです。
 
 
そこに、
何ら抵抗感を覚える必要は全くないのです。
 
 

「不安」と「困惑」と

私達は、何事を行うにも、
常に、
「不安」と「困惑」が付き纏ってくるものです。
 
 
 
そして、
これらの問題は、
 
何かを「やっている」時にだけ、
あるものでなく、
 
 
逆に、
何も「やらなかった」としても、
それは、別の形で沸き起こってくるもので、
 
 
 
つまり、
 
何かをしようが、しまいが、
関係なく、
 
「不安」や「困惑」から、
解放されることはないのです。
 
 
 
 
生きている限り、
 
「不安」や「困惑」とは、
向き合い続けなければならないのです。
 
 
「乗り越え」続けなければならないのです。
 
 
 
そうであるならば、
 
もっと前向きに、
「乗り越えて」いくしかないのではないでしょうか。
 
 
 
自分の「選択」した生き方を。
 
 

「意識的」に生きる

私達は、
誰もが日々の生活の中で、
「行動」をしています。
 
 
 
ただ、
そのほとんどは、
ルーティン、習慣となっているもので、
 
 
「無意識的」な「行動」ばかりが、
多くを占めてしまっているのではないでしょうか。
 
 
 
 
「行動」することが、何よりも大事、
 
とは、よく言われることではあり、
確かに、その言葉の通りだと思います。
 
 
 
この世は、
「行動」、「経験」することでしか
得ることの出来ないものばかりだからです。
 
 
 
ですが、当然ながら、
その「行動」というのは、
「意識的」なものでなければ、あまり意味はなく、
 
 
「意識的」に「行動」することで得られる、
「感覚」こそが、貴重なものなのです。
 
 
 
 
「知る」ということは、
「感覚」や「体感」が必要です。
 
 
 
どんなに「知識」を身に付けたとしても、
「感覚」や「体感」のないものは、
 
本当の意味で、
「知る」ことにはなりません。
 
 
 
 
もっと、
「意識的」に「行動」してみましょう。
 
普段の何気ない中にも、
 
生きるための「ヒント」が、
そこにあるのかもしれません。
 
 
 

自分にとっての「真実」

私達は、
「経験」を通じてでしか、
 
何も知ることは出来ず、
何も得ることは出来ません。
 
 
 
たとえ、
同じ「経験」をしたとしても、
当然ながら、
人によって「感じ方」は様々で、
 
 
何を「感じる」かこそが、
その人の「個性」、「本質」であり、
 
 
さらに言うと、
その人にとっての「真実」なのです。
 
 
 
 
本やネットでの情報、
人から伝え聞いたもの、というのは、
 
 
どこまでいっても、
 
その「発信」した人にとっての
「真実」でしかなく、
 
 
自分にとっての
「真実」であるとは、限りません。
 
 
 
そして、
同じ自分であっても、
「状況」が変われば、
「感じ方」も変わるものですが、
 
 
それも、それぞれが
「真実」であることには変わりはないのです。
 
 
 
 
「真実」は、人の数だけある
といってもいいのかもしれません。
 
 
そこに「不正解」というものはなく、
全てが「正解」なのです。
 
 
 

全ては「小さな行為」から

私達は、
個人個人それぞれに、
何かしらの「目標」や「夢」があって、
 
それに向けて、
日々、取り組んでいるわけなのですが、
 
 
 
その対象となるものが、たとえ、
どのような「規模」のものであろうとも、
 
 
それらの全ては、
小さく「細分化」されたものの
「集まり」であって、
 
 
 
それはつまり、
どのような「目標」や「夢」であっても、
 
 
全ては、
「小さな行為」を「積み重ねる」、
 
ということにあるのです。
 
 
 
「小さな行為」自体そのものは、
ほとんど「影響」を与えるものではないかもしれません。
 
 
 
ですが、
これを「積み重ねる」ことによって、はじめて、
大きな「力」となり、
 
 
また、
「積み重ねる」ことでしか、
大きな「影響力」を持つことは出来ないのです。
 
 
 
 
 
私達が取り組んでいる、
日々の「努力」というのは、
 
まさに、
この「小さな行為」なのです。
 
 
 
 
「積み重ねる」ことが、重要なのは、
言うまでもなく、
当たり前のことかもしれません。

  
 
ですが、
ここを「蔑ろ」にしていては、
 
「何も成すことは出来ない」、
というのもまた事実なのです。
 
 
全ては、
「小さな行為」からはじまるのです。
 
 
 

「恐怖」をコントロール

人は、生まれた時には、
「恐怖心」というものは何もなく、
 
 
生きていく中で、
様々な経験をすることで、
 
 
「生き延びる」
ための一つの「手段」として、
「恐怖」という「気持ち」を知るのです。
 
 
 
ですので、
「恐怖心」は、いわば、
 
 
私達を「守る」ための存在、
ともいえるのですが、
 
 
 
一方で、
「恐怖心」があるが故に、
「行動」を妨げてしまうものでもあるのです。
 
 
 
 
そもそも、「恐怖心」とは、
過去の「経験」からの産物であって、
 
 
常に、
自分の中に「内在」しているもの、
 
自らが「作り出している」ものに過ぎないのです。
 
 
 
まずは、
「恐怖心」の源、
その正体を探ってみましょう。
 
 
 
その正体を知ることが出来れば、
 
 
今の自分にとって、
「不要」な「恐怖心」を排除することが出来る、
 
 
則ち、
「恐怖」をコントロールすることに繋がるのです。