哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

生涯をかける「テーマ」

誰にとっても、人生においては、
 
「良い」時と「悪い」時が、
「繰り返される」ものです。
 
 
 
とりわけ、
「悪い」状況においては、
 
どのような「振る舞い」を取れるか、
 
その人としての「真価」が、
問われるものでもあるのです。
 
 
 
 
勿論、
苦しい状況なわけですから、
 
「いつも通り」の「自分」でいることは、
とても難しいのかもしれません。
 
 
 
寧ろ、
このような状況になってはじめて、
 
「本当の」自分、
というものが現れてくるともいえるでしょう。
 
 
 

そして、
そんな「自分」のことを、
 
もしかしたら、
 
本人である「自分自身」でさえも、
今まで認識していなかったかもしれません。
 
 
 
 
「自分」の中には、
まだまだ「未知」の「自分」がいるということです。
 
 
 
 
だからこそ、誰にとっても、
「自分を知る」こととは、
 
尽きることのない、
生涯をかけるべき「テーマ」だと思うのです。
 
 

他人を「見る」こと

仕事やプライベート等、
どのような場面においても、
何かしらの問題やトラブルが付き纏ってくるもの、
 
それが「人間関係」です。
 
 
 
 
 
私達は、誰もが、
「異なる」気質や個性、性格を持っていて、
 
 
根本的に、
相手の人と、うまくいかない、
ということは、どうしても起こり得ます。
 
 
 
もしくは、
何かのきっかけが元で、
相手の人に「ネガティブ」な感情を
持ってしまうこともあるのでしょう。
 
 
 
 
 
とにかく、
いずれにしても、
 
相手の人に対して、
「マイナス」な感情を抱いてしまう元は、
 
やはり、
「自分」なのだ、
 
ということを改めて認識しておく必要はありそうです。
 
 
 
 
そもそも、
相手の印象を決めているのは、全て、
「自分」です。
 
 
 
たとえ、
相手がどのような振る舞いであろうとも、
 
 
「自分」が「思った」ようにしか、
「自分」には「見えない」のです。
 
 
 
 
人は、
「偏見」の固まりとも言えます。
 
 
ですので、
相手の全てを「見る」ことは不可能ですし、
 
「見たい」ようにしか、
「見る」ことは出来ません。
 
 
 
 
そこを意識をすることが出来れば、
相手への「見方」も変わり、
「人間関係」も変えることが出来るのかもしれません。
 
 

他人より「劣る」もの

行動しようとしない人の中には、
 
「自分が他人よりも、『劣っている』」から、
ということを「理由」にして、
 
 
自分が行動しないことを、
「正当化」しよう、
 
とすることを見かけることがあります。
 
 
 
 
私達は、
この世に生を受けてから、
 
これまで生き方は、
それぞれ「異なる」ものではあるものの、
 
こうして、今まで
「生きてきた」わけでして、
 
 
 
単純に、
「生きる」という点においては、
「他人と劣る」ということはあり得ないのです。
 
 
 
ほんの少し、
動作が早かったり、
考えるのが得意だったり、
コミュニケーションを取るのが上手かったり、
 
 
 
と、
社会生活を送る上において、
得意不得意の差というのは、
多少はあるのかもしれません。
 
 
あるいは、
専門性の有無、というものもあるでしょう。
 
 
 
 
ですが、
本来、人のやっていることは、
 
全てが、「シンプル」で、
難しいことは、一つもないのです。
 
 
 
一見、
難しそうな「イメージ」を持ってしまうものも
あるでしょうが、
 
 
それも、自分が勝手に、
「イメージ」しているだけに過ぎず、
 
 
「シンプル」で「容易」なものであることに、
変わりはないのです。
 
 
 
 
 
「他人」が出来るのなら、
「自分」も出来るのです。
 
 
「気後れ」する必要は、何一つないのです。
 
 
 
「他人よりも劣る」から、
と行動しないのは、
 
ただの「怠慢」だということなのです。
 
 

「パターン」」を崩す

今までの自分の「パターン」を変えてみる。
 
思考や行動、その他諸々…
 
 
 
 
人は誰もが、
生き方に「癖」をもっていて、
 
本人が望む望まないに拘わらず、
これまでの生き方が、
今の思考や行動を「固定化」し、
 
それが「パターン」となってしまうのです。
 
 
 
「固定化」されているので、
これを変えようというのも、
なかなか容易ではないのですが、
 
 
この今までの「パターン」を変えない限り、
何を行ったとしても、
 
 
ついてくる結果は、全て
「同じ」になってしまうのです。
 
 
 
 
私達の行動は、
そのほとんどが無意識に行っているもので、
 
それは、
「パターン」化されているから、
実現できるのです。
 
 
 
良い習慣を、
「パターン」化させることは、
それはそれで良いことであるのですが、
 
 
一方で、
「あって当然」のものと、
認識してしまうので、
 
盲目的にもなってしまい、
 
 
それ以上、
自分が成長、進歩することも出来なくなってしまうのです。
 
 
 
 
事の大小は関係ありません。
 
とにかく、
今の「パターン」を崩してみましょう。
 
 
ほんの少しでいいので、
自分に「挑戦」してみるのです。
 
 
 
それによって、
「異なる」結果が引き起こされ、
 
 
良くも悪くも、
「新しい」自分が見えてくるもので、
 
 
それが、
自分に対しての「気づき」であり、
「自分を知る」ということに繋がるのです。
 
 

「存在」する理由

私達の身の回りのものは、
 
全てが「必要」なものだから、
「存在」しているわけで、
 
「不要」なものであれば、
そもそも「存在」することはありません。
 
 
 
 
これは、
人の食欲や睡眠欲、その他の生理的な反応も、
 
全てが、
自分にとって「必要」なことだから、
ということと同じなのです。
 
 
 
 
そして、
自分の「経験」というのも、
これと全く同じで、
 
 
今、もしくは将来、
「必要」になるからこそ、
 
これまでに様々な「経験」をしてきたわけで、
 
どのような「経験」も、
目には見えなくても、必ず「活かされて」いるのです。
 
 
 
 
「存在」するのは、「必要」だからであり、
「必要」だからこそ、「存在」するのです。
 
 
 
私達自身の「存在」する理由も、
そこにあるはずなのです。
 
 

「腹に落ちる」感覚

心から「納得」、「理解」した時の、
「腹に落ちる」という感覚。
 
 
この感覚を得られると、
「迷う」ことや「悩む」ことが、
全くなくなるのですが、
 
 
現実には、
なかなか得ることの「難しい」ことでもあるのです。
 
 
 
 
 
「腹に落ちる」という感覚は、
言い換えれば、
 
 
「100%、完全に信じ切る」
という状態でもあって、
 
 
まさに、
少しの「疑念」や「不安」もない、
状態です。
 
 
 
さらに言い換えると、
 
自分にとっての「真実」を得る、
 
ともいえるのでしょう。
 
 
 
 
 
全ての物事は、
「多面的」な要素を含んでいるもので、
 
 
その中のどれかが、
「正しい」、「間違っている」、ことはなく、
 
 
そのどれもが、全て、
「正しい」わけでして、
 
 
 
そのような中で、
何か「一つ」の側面だけをみて、
 
「腹に落ちる」
「完全に信じ切る」
 
という感覚を得ることは、
とても「難しい」ことだと思うのです。
 
 
 
その見方を打ち消す
「別の」側面が、そこにあるのですから。
 
 
 
 
そして、そのことを
誰でも「頭では理解」しているのですが、
 
やはり、
「腹に落ちる」こととは、全く異なるのです。
 
 
 
 
それにも拘わらず、
自分の心が、
「納得」していないのに、
「納得」する「フリ」をさせていませんか。
 
 
 
自分の心を
「無理矢理」に「納得」させることは、
誰にも出来ません。
 
 
 
私達に出来るのは、
自分の心が「納得」するまで、
 
 
ひたすらに、
「腹に落ちる」瞬間を待つしかないのです。
 
 

「選択」と「結果」と

人生は「選択」の連続ですが、
 
とりわけ、
「大事」になればなるほど、
 
 
「後には引き返せない」、
 
という心理が働いて、
時間をかけて、慎重に熟考する、
ものだと思われます。
 
 
 
ですが、
その「選択」をしたにも拘わらず、
思うような「結果」を得られなかった場合、
どうなるでしょう。
 
 
 
当然ながら、
心的ダメージは大きく、
その「代償」として、
 
 
おそらく、誰もが、
その「選択」をした「自分」を罵り、
 
自らを貶める言葉を、
自分に投げかけてしまう、
 
 
ということを、
無意識の内にやってしまっているのだと思います。
 
 
 
 
 
「選択」した時は、
それが「ベスト」だと思ったからこそ、
そのようにしたわけで、
 
 
「結果が伴わなかった」、と分かった瞬間に、
手のひらを返したかのように、
 
 
その「選択」をした自分自身を卑下する、
というのは、
いかがなものでしょうか。
 
 
 
 
 
残念なことに、
今の自分の「状況」というのは、全て、
自分がこれまでに行った「選択」の「結果」であり、
 
 
まさに、
「一事が万事」なのです。
 
 
 
ですが、
その一つ一つの「選択」には、
その瞬間瞬間における「思い」や「考え」が、
あったはずなのです。
 
 
 
 
過去を振り返った時、
起こった「結果」ばかりを見ていませんか。
 
 
その「結果」に至る「選択」や、
そこでの「感情」や「思い」こそ、
 
貴重なもので、
もっと大事にしていかなければならないものではないでしょうか。