哲学的思考~Philosophical Thinking

~よりよく生きるために、自分自身を見つめ直す~

「思考」のコントロール

人は「行動」することによって、
物事を変えることが出来る、
 
 
故に、
いつまでも「思考」ばかりで、
「行動」が伴わなければ、
 
 
何事も変わらないのは、
至極当然のこと、
 
 
ではあるのですが、
 
 
 
そうはいっても、
より良く「行動」するためには、
どのように「思考」するか、
 
 
が大前提であり、
「思考」なしに、
「行動」は起こしえないのです。
 
 
つまり、
物事の成否は、
「思考」の仕方次第なのです。
 
 
 
 
私達の身の回りの全ての「事象」は、
数多くの人の「思念」、「思考」によって
作られたものです。
 
 
そして、
自分に関わる全ての「出来事」は、
自分の「思念」、「思考」が
作り出したものであり、
 
 
全ては、
「自分が何を考え、どう思うのか」、
 
ということに集約されるのです。
 
 
 
 
私達は、一日に、
「何万回」という「思考」をする
と言われています。
 
 
その中で、本当に
「自分のこと」、
「自分のためになること」、
 
 
というのは、
一体どのくらいあるのでしょうか。
 
 
 
頭の中では分かっていたとしても、
 
 
どうしても、
自分を卑下したり、
自分を貶めたりするようなことは、
ありませんでしょうか。
 
 
もしくは、
他人を見下したり、
他人の失敗を願ったり、
 
 
そのようなことばかり
思ってはいませんでしょうか。
 
 
 
「自他の区別」関係なく、
 
自分の「思考」したことは、
全てが「自分に返ってくる」のです。
 
 
 
 
自分の「思考」というのは、
自らが「選んでいる」ものであり、
 
 
本来は、
自分で「コントロール
出来るものなのです。
 
 
 
それにも拘わらず、
「感情」ばかりに振り回され、
 
 
「思考」を「コントロール
することを放棄してしまっているのです。
 
 
 
だからこそ、もう一度、
自分の「思考」を「コントロール
することを、意識するのです。
 
 
 
 
自分の「思考」を「コントロール
することさえ出来れば、
 
 
それは、則ち、
 
 
自分を思い通りに「行動」
させることが出来る、
 
 
ということでもあるのです。
 
 

「やり続ける」ために

物事を実現させるためには、
 
何よりも、
「諦めずにやり続ける」こと、
なのですが、
 
 
そのためには、
自分が信じたことを、
どこまでも「信じ切れるのか」、
 
 
ということが重要で、
 
 
その「信じ切る」氣持ちがない以上、
物事を実現させることは不可能、
といってもいいのです。
 
 
 
 
更に、もう一つ、
 
このような取り組みは、
「一朝一夕」で、
実現出来るものではなく、
 
 
「自分の人生を費やす」、
くらいの氣持ちで、
 
長いスパンで取り組む必要があるのです。
 
 
 
長いスパンであれば、
それこそ、
 
「良い時」も「悪い時」もあるもので、
 
 
「良い時」であれば、
何も問題にはなりませんが、
 
 
「悪い時」には、
「やり続ける」ことが難しい状況に
陥ることもあり、
 
 
いかに「諦めず」に、
「やり続ける」ようにするか、
 
がポイントになるのです。
 
 
 
それは、
氣持ちが折れてしまい、
「やり続ける」ことを「諦めて」しまえば、
 
二度と同じような挑戦をしようとは、
思わなくなってしまう可能性があるからです。
 
 
 
それは、
「諦める」ということが、
 
何よりも、
「自分に対しての信頼」を傷つける、
ことであり、
 
「自分自身を裏切る」行為だからなのです。
 
 
 
「自分」のことは、
「自分」が最も大事にしているものですし、
 
そのような「自分」を
何度も傷つけるようなことは、
誰もがしたくはないはずですから。
 
 
 
「良い時」も「悪い時」もあるのです。
 
だからこそ、
一時の「波」の状態に、その都度、囚われることなく、
 
 
「良い時」も「悪い時」も、
 
全てを「織り込み済み」として、
長いスパンで考えなければならないのです。
 
 
 
「良い時」があるからこそ、
「悪い時」もあるのであって、
 
その逆もまた然り。
 
 
 
「やり続ける」にあたり、
これらの事象は全て、
 
実現化における「必然」の「プロセス」なのです。
 
 
 
逆に言うと、
この「プロセス」を経ることなく、
 
実現化することはない、ということなのです。
 
 
 
全ては「必然」なのですから、
 
 
もはやこれ以上、一時の「波」に、
自分の氣持ちを揺さぶられてしまうことは
ないのです。
 
 
「諦めて」、「辞めて」しまわない限り、
 
そこには「何か」があるのです。
 
 
そして、貴方が、
必ず「何とかする」はずなのです。
 
 

「自分」が選んだ問題

人生における問題や困難は、
人それぞれ、
様々なタイミングや、様々な形で現れます。
 
 
特に、
自分の人生そのものを、
根底から揺るがすような問題であれば、
尚更で、
 
そのような人生を選んだ自分を、
恨んだりしようと思うこともあるかと思います。
 
 
なぜ自分ばかりに困難が降りかかるのか、
なぜ自分ばかりがこんなに悩まされるのか、
 
と。
 
 
 
ですが、一方では、、
「自分だから」こそ起きた問題、
とも言えるのです。
 
 
そして、
問題というのは、常に
「起こるべくして起こる」
ものであって、
 
 
別の言い方をすると、
「自分が選ばれた」、
 
もしくは、
「自分が選んだ」
 
からこそ起きたものだともいえるのです。
 
 
つまり、
「起きた」ことについて、
偶然性はなく、

そこには何かしらの「サイン」があり、
 
 
自分の何かを変える
「タイミング」、「縁」なのです。
 
 
 
 
 
問題や困難は、誰もが嫌うものです。
 
 
ですが、
物事とは、全てが「表裏一体」。
 
 
「ピンチはチャンス」、
の言葉の通り、
 
 
問題や困難は、
自分を次なるステップに進ませるために
必要な、「必然の」出来事なのです。
 
 
 
ですので、
まずは、どのようなことであっても、
「自分を信じて」挑んでみるのです。
 
 
勿論、
挑まずに、逃げる、
という選択肢もありますが、
 
 
逃げることは、
その問題だけではなく、
「自分自身からも逃げて」
しまうことになるのです。
 
 
 
その問題や困難に対し、
挑むか、逃げるか、ということは、
 
 
一時のことだけに留まらず、
自分自身の全てに関わってくるのです。
 
 
まさに、
「一事が万事」
でもあるのです。
 
 

「今の自分」を捨てる

物事は「全力で」取り組んだ時にこそ、
現実化します。
 
 
 
「全力で」取り組むということは、
「無我夢中」になる、
 
ということ。
 
 
 
「無我」とは則ち、
 
「我」が無いわけなので、
 
そこには、
「リスク」や「リターン」
といったものはおろか、
「不安」や「恐怖」といった「感情」も無く、
 
 
ただ純粋に、物事に対し、
「没頭」するのみなのです。
 
 
 
「我」が無いというのは、「自分」が無い、
 
それは、いわば、
「捨て身」に近い状態でもあり、
 
「捨て身」でいるためには、
それだけの「勇氣」と「覚悟」が必要ともいえるのです。
 
 
 
ですので、
「勇氣」や「覚悟」もなく、
 
「リスク」や「リターン」のことを考えていたり、
「不安」や「恐怖」を感じている限りは、
 
 
まだまだ、
「捨て身」でいるとは言えないのです。
 
 
 
 
つまり、
新しく何かを得るためには、
「今の自分」のままではダメであって、
 
 
「今の自分」のままでいるから、
何も現実化出来ないのです。
 
 
 
だからこそ、
「今の自分」を思い切って「捨てる」
ことが必要になってくるのです。
 
 
それが「捨て身」でいる、
ということなのです。
 
 
 
貴方はまだ、
「今の自分」に、拘り続けなければならない
何かしらの理由を持っているのでしょうか。
 
 
「今の自分」を捨てることで、
「失って」しまうものは何でしょうか。
 
 
 
もし、
拘る理由も、失うものもないのであれば、
 
 
これ以上、
「今の自分」でいる必要もなく、
思い切って、
「今の自分」を捨ててしまいましょう。
 
 
「捨てる」チャンスは、
今が、一番のタイミングなのです。
 

 
そして、もう一度、
「無我夢中」になれるものを探して、
そこに「全力」を尽くすのです。
 
 

「勇氣」を出す

人生を切り開くためには、
何よりも「行動」が必要なのですが、
 
 
その「行動」を起こすためには、
「意志」や「覚悟」、「勇氣」が求められます。
 
 
 
日常の些細な出来事から、
人生の選択を迫られるような大きな出来事まで、
 
 
私達は、常に「選択」をしており、
 
 
どのような「選択」をするかというのは、
全て「勇氣」が試されているのです。
 
 
 
 
この「勇氣」がなければ、
「不安」や「恐怖」を増長させることになり、
 
 
その「不安」と「恐怖」は、
物事を歪んだ形で見させ、
 
 
間違った「判断」へと導かれてしまうのです。
 
 
 
 
「不安」や「恐怖」とは、
 
 
今ある「現実」を元に、
自分の「心の中」で作り出されたもの
に過ぎないのですが、
 
 
 
一刻も早く、そこから逃れようと、
問題となるその「現実」を直視せず、
 
 
逃げてしまったり、
その場限りにやり過ごそうとしてしまうのです。
 
 
 
しかしながら、
「自分の人生」は、自分だけのものなのです。
 
 
「自分自身」の人生なのですから、
自分しか、
この「現実」を変えることは出来ないのです。
 
 
もっと自分の「現実」に、
向き合っていくしかないのです。
 
 
 
「勇氣」を出す、ということは、
 
 
今の自分の「現実」から、
逃げたり、ごまかさないことなのです。
 
 
 
人生を切り開く、というのは、
そのような「自分」との闘いなのです。
 
 

「夢」を持つ意義

私達は、幼い頃から、
 
どのような大人になりたいのか、
どのような職業に就きたいのか、
 
様々な「夢」を持っていたと思います。
 
 
そして、
やがて成長するにつれ、
 
 
「現実」の厳しさというものを知り、
「夢」を叶える困難さを知ることになります。
 
 
更に、
「夢」を持つことの意義や価値すらも、
 
見出せなくなってしまった人も
いるのではないかと思います。
 
 
 
将来どうなるか分からないのに、
 
 
果たして、
「夢」を持つことに意義があるのか、、
 
 
「夢」を持って頑張るだけでも、
それが叶えられないのなら、
やるだけ無駄なのではないか、、
 
 
そもそも、
「夢」は持たなくても、
生きていけるではないか、、
 
 
 
 
確かに、
人生というのは、
そんなに単純なものではなく、
 
 
誰もが、紆余曲折、
様々な生き方を余儀なくされます。
 
 
 
ですが、
「夢」を持って、
「真剣に」生きてきたことで、
 
はじめて出会える「縁」もあるのです。
 
 
「夢」がなければ、
出会えない「縁」なのです。
 
 
 
そして、
その「縁」は、
自分の未だ「知ることのない」
世界でもあるのです。
 
 
 
それは、
自分の未知の「可能性」を
更に広げてくれるものでもあるのです。
 
 
 
それはもはや、
「夢」を持つ、持たない、
 
ということの問題だけではなく、
 
 
 
いかに、
目の前のことに「集中」しているか、
「全力」で生きているか、
 
ということでもあるのです。
 
 
 
「夢」を持つという意義は、
 
 
「夢」そのものを叶える、
ということだけでなく、
 
 
その先の自分の更なる「可能性」
を導いてくれる、
 
 
そのようなところにあるのかもしれません。
 
 

「行動」出来ない理由

物事を「実現化」するには、
何よりも「具体的」な「行動」が必要です。
 
 
私達の「意志」は、
 
「具体的」な目的や目標があってこそ、
はじめて実現に向けて、動き出すのですが
 
 
「抽象的」なままに、留めてしまっていては、
残念ながら、動き出してくれないのです。
 
 
ただ、
「頑張る」よりも、
「○○のために頑張る」のが良くて、
 
更に、
「その○○を行うためには、
△△の手順が必要で、
そのためには、□□が必要」
 
ということであれば、
何をどのようにすればいいのか、
はっきりとするので、
後はその通りに「行動」すればいいのです。
 
 
 
そして、
「行動」しなければいけない、
と分かっているのに、
 
なかなか「行動」出来ない、
という人が陥るのが、この、
 
 
やることを
「具体的」に落とし込む、
 
 
という工程なのです。
 
 
 
人は誰でも、
やるべきことが「明確」にさえなっていれば、
すぐに「行動」するもので、
 
 
「行動」するのに、
フットワークが「軽い、重い」、
等という問題ではないのです。
 
 

 
 
すぐに「行動」している人は、
 
この「具体的」に、
何をするのかということを
把握、判断するのが、少し早いだけに過ぎないのです。
 
 
 
 
なかなか「行動」出来ずに悩む人は、
 
この工程を「端折って」しまうから、
後で何をすればいいのかが、
分からなくなってしまうのです。
 
 
貴方はなぜ、
「行動」が出来ないのでしょうか?
 
 
自分の「氣持ちの弱さ」のせい、
にしていたりしていませんでしょうか?